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論語に学ぶ人事の心得第28回 「指導的地位に立つ人は用途の決まった道具であってはならない」

 本項はたった7文字しかない短い文章です。しかしながら、その中身はというと人事の支柱ともいうべき根本原理が詰まっています。
 まず「器」という言葉ですが古くから二つの意味で用いられてきました。


食器としての土器 出典:ウイキペディア

 一つ目はりっぱな才能の持ち主という意味です。例えば「あの人は器が大きい」というように使われます。もう一方は道具としての意味です。石器、鉄器、食器などとして使われます。本項で使われている意味は後者です。道具は便利ですが用途は限定的で決まっています。

 孔子は本項で何を言いたかったのでしょうか?
 リーダーたるものの心得として二つの思いがあったと私は思います。
 その第一は、君子(指導的立場に立つ人)たるものは自分で限界を造ってはならないということです。人間には無限の可能性が備わっています。この潜在力を一つの単なる器として閉じ込めてはならないということです。
 第二は、君子(指導的立場に立つ人)たるものは一つのことしかできない道具であってはならないということです。若かりし頃より何事にも興味を寄せ見分を広めることで人の上に立つ素養が自然と身につくのです。

 孔子の生い立ちが上記のことを実践したことを物語っています。
 孔子は最初に出仕したときの仕事は下級中の下級官吏である倉庫番でした。それから家畜の番人なども経験しています。これらは決して満足した仕事でなかったはずです。
しかしながら、孔子は嫌がりもせず与えられたいろいろな仕事を経験する中で師としての技量を身に着けていくのです。この経験が孔子の後半生に決定的な影響を与えることになりました。


 為政2-12「子曰く、君子は器(うつわ)ならず」

 先生は言われた。「君子は器(うつわ)ならず」とはいずれ社会のリーダーになる弟子諸君は使い道の決まった道具(食器)のようになってはならない


 論語の教え29: 「人の上に立つ指導者を目指す人はゼネラリストであれ」

 人間には理系タイプと文系タイプがあるように、能力にも二つのタイプがあります。いわゆるゼネラリスト(管理職・指揮官型)タイプとスペシャリスト(専門職・参謀型)タイプです。これらには優劣はありません。しかしながら、両方の資質を同じレベルで備わった人はほとんどいないと言っても言い過ぎではありません。


孔子像 出典:Bing


 上に立つ人は幅広い心と関心を持て
 孔子は人の上に立つ指導者にはゼネラリストがふさわしいと言っています。しかしながらスペシャリストよりゼネラリストが優れていると言っているのではありません。人にはその人に天が授けたタイプがあります。また、人にはそれぞれの立場で果たすべき役割もあります。スペシャリストであれ、ゼネラリストであれ、まず、これらの任務を全うすることが重要です。
 従って、自分のタイプに最適な仕事を選択することが望まれます。自分のタイプと職務がマッチすれば自分を向上させる正の循環が始まるからです。
 それでは、最適な職務を選択するにはどうすればいいのでしょうか。それには前述したように自分の可能性を試すために幅広く経験を積み重ねることで可能になります。若かりし頃はえり好みせずいったんは挑戦してみることです。
 このことを孔子が生涯をかけて実証しました。孔子だからできたのだと思うかもしれませんがそうではありません。誰にでもできることだから孔子は弟子や次代を担う若者に呼び掛けたのです。
また、なぜ、上に立つ人は幅広い関心を持つ必要があるのでしょうか?
 リーダーは多くの人に導き進むべき方向を示さなければならないからです。それは、自分だけの関心事だけでなく、広い心で多くの人の関心事も理解しなければなりません。この広い心で何事にも関心を寄せることは多くの人を導くための必須事項です。

 処遇と責任を混同するな
 かつて、人事管理はゼネラリスト優位論が主流でありました。俗な言葉でいえば職制上の地位が上がらなければ出世できないし、給与も上がりませんでした。そこで、給与を上げるために職階と職位を数多く増やし続けました。
 その結果、部長、課長、係長、主任という正規の職制に加え、副部長、副課長、副係長、副主任といった職責とは関係のない名称が組織内に氾濫することとなりました。
 また、部下を持たない名前だけの管理監督職も生まれました。
 その結果、人事の停滞や硬直化が始まりました。責任を持たない名前だけの役職者が激増し組織編成ができなくなったからです。しかも、いったん付けた肩書は簡単に外すことができません。なぜなら、給与と直結しているからです。ここでも人事の硬直化が顕著になりました。
 本来、職制制度は事業方針を遂行するために職務分掌、職務権限、職務責任を明確に規定したものです。人事処遇とは全く関係がない仕組みですがそれをあえて同一にして運用したために混乱が生じてしまったのです。
 人事管理を有効に機能させるためには職制制度と人事処遇制度を別々に運用することが絶対条件です。(了)


論語に学ぶ人事の心得第27回 「温故知新とは先人に学び、現代に活かすこと」

 「温故知新」という四文字熟語は誰でも知っている言葉です。温故知新の意味は「過去のことを研究して、そこから新しい知見を見つけ出すこと」です。 論語で取り上げられて以来2500年の時を超えて現代でも十分通用する言葉として燦然と輝いています。


若き孔子像 出典:Bing

 孔子はもともと歴史に学ぶことを重視し実践していました。本項はその孔子の実体験に基づいて、周りにいた弟子や将来のリーダーになる人に贈られた言葉です。
 孔子が関心をもって学んだのは古代中国の賢帝と言われる帝王が実際に取り入れた統治制度や律令を研究することでした。
 孔子が優れている点は、それらの古い時代を研究することで得た知識や道理をそのまま受け売りするのではなく自分なりの考えを培養して、その時代に通用する知見として活用したことでした。孔子が自ら述べているように単に頭の中で理解していることは真に学んだとは言えず、実践できて初めて学習したことになります。
 そして、孔子は弟子に将来地域社会の指導者として活躍し、使命を果たすことを期待していました。孔子の期待する指導者像は知識の豊富な頭でっかちのリーダーになることではありません。論語ではしばしば「君子」という言葉が出てきます。君子とは徳を積んだ周りから信頼される人という意味です。高貴な近寄りがたい権力者ということではありません。

 「温故知新」における「温」は、「たずねる」と読みます。 温(たずねる)は「尋ねる」「習う」「復習する」「よみがえらせる」といった意味を持っています。 「故」という字は、「昔、以前」「もとより、はじめから」「古い」などといった意味です。 それらが組み合わさり「過去のことを研究する」といった意味になりました。 「知新」はそのまま「知る」と「新しい」で「新しいことを知る、新しい知識をもつ」といった意味になります。

 為政2-11「子曰く、故(ふる)きを溫(たずね)て新(あたら)しきを知る、以(もっ)て師と爲(な)る可(べ)し」

 先生は言われた。「故(ふる)きを溫(たずね)て新(あたら)しきを知る」とは過去を過ぎ去った時間だとして捉えるのではなく、現在の問題として認識すること。以(もっ)て師と爲(な)る可(べ)し」とはその様にすれば人を教える立場になるころができる。


 論語の教え28: 歴史という長い時間軸で熟成した人類の英知を活学すべきだ


若きビスマルク像 出典:ウイキペディア

 教え1「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」
 この名言は初代ドイツ帝国宰相であるオットー・フォン・ビスマルクの残した言葉です。いきなりドイツ人の話が出てきて驚かれたと思います。
 時代も国も文化も全く異なる社会に生きた二人の偉人に共通する考え方を紹介する意味であえてここで引用しました。
 ビスマルクの言っている「愚者は経験に学ぶとは愚かな人は自分一人の経験からしか学べない。「賢者は歴史に学ぶ」とは、賢い人は長い歴史に脈々と流れる他人の経験を含む歴史的事実から学んでいるという意味です。
 論語の温故知新の故(ふるき)を温(たずね)と言っているのはまさに歴史に学ぶということです。
 そして、歴史に学ぶことは限りある個人の知見より多くの人が経験してえた知見のほうがはるかに確実性の高い情報になるからです。


 教え2「同じ失敗を繰り返さないために、故(ふるき)を温(たずね)て、先人の経験法則を学ぶべきだ」

 ご承知のように、経験法則は一朝一夕(いっちょういっせき)にできるものではありません。長い時間をかけて人類が蓄積してきた普遍性を持った決まりごとです。
 歴史は私たちが長い時間をかけて熟成した実際におきた事例です。そこには成功した事例もあれば、失敗した事例もあるでしょう。また、成功したがゆえに失敗を引き起こす誘因となった事例もあります。

 私たちが「故(ふるき)を温(たずね)る」理由には次の二点が想定されます。

 第一は先人が失敗した事例や成功したことが誘因となって失敗した理由を研究し二度と同じ過ちを犯さないためです。
 私たちが営んでいる人間社会は自然科学界と異なり正解が一つであると断定できません。正解が複数ある場合もあります。また、ある時は正解であっても、環境が変われば不正解に変化することがあります。
 従いまして、これらに的確に対応するには事例研究を怠らないことです。それは、知識を増やすためでなく、数多くの事例に触れ、繰り返し事例を解く訓練をすることにより思考力を強化することです。後世、ケースメソッドと言われる学習方法が開発されました。そこで討議を積み重ね、経営責任者としての思考力を鍛錬することで最適な対応策をまとめ上げるのです。
 ここでも孔子の人材育成方針が生きてきます。
 それは、「自ら考え、実行する思考力を養成すること」です。
 そのために、「三者三様の教え」「正解を導き出す思考過程の教え」「事実を検証することの教え」の三点を実践しました。

 第二は不測の事態が勃発したときにその対応策を誤らないためです。
 この世の中で、将来何が起こるのかを確実に予見することは不可能です。未来はすべて神のみぞ知る世界です。将来何が起こるかは誰にも分かりません。そこで、何かが起きた時にどう対応するか、教材は過去にしかありません。そして、それを自分の身体に叩きこむことです。
 ここに私たちが「故(ふるき)を温(たずね)る」理由があります。
 天災や人災であれ、災害、事件や事故がいつ起きても不思議ではありません。
 いずれまた大きな天災が起こるでしょう。その時に災害への対応策を勉強した人としなかった人、どちらが助かりやすいかは誰にでも分かります。歴史を学ぶ大切さは、これに尽きます。(了)


論語に学ぶ人事の心得第26回 「人事管理の根本原理である人の本性はどのようにすれば見抜けるか」

孔子像 出典:Bing

 人間の心は海より深く、それを理解することはとても難しいと言われます。公的にも私的にも人間関係に悩みを抱えているのは古代でも現代でも変わりません。人間を理解することは孔子の生きた時代から続いている人類の永遠の課題だと言えるかもしれません。
 本項ではその永遠の課題に対して、孔子はとても端的(たんてき)に人間の本性を見抜き喝破(かっぱ)していると思います。
 それには以下の三つの理由(わけ)が透けて見えます。

 第一は、「人間の言葉でなく行動を観察せよ」と言っていることです。
 人間は言行一致していればなんの問題もないのですが、必ずしもそうではありません。この世の中には、耳に心地よい言葉を発していても正義に反する行動をとっている人ははいくらでもいます。いわゆる偽善者と呼ばれる人たちです。
 それに反して、言葉はとつとつとして流暢ではないのですが、行いは社会の鏡になるような立派な人がいます。前回に出てきた師から仁者といわれた顔回(がんかい)のような人です。孔子は顔回の行動から仁者であることを見抜いたのです。
 その人の行動を観察すれば人間の本質が見えてくるという見本を示しています。

 第二は、「人間の行動の背景には必ずその理由(わけ)がある」ということです。また、人間の行動には目的があります。
 人間の本性を知るには行動の理由を理解することがとても重要です。人間の行動の動因でもある動機を把握すれば、必ず、なぜそのような行為を行うに至ったのかも把握できます。それは、刑事捜査で常道的に使われる手法でもあります。
 そして、その行為が罪に問えるかどうかを判断する根拠になります。刑事問題でなくても一般的に言って、人の行為には必ずそのわけがあり。そこから真実や物事の本質がが見えてきます。

 第三に、「人間の行動には達成すべき目標がある」ということです。人は誰でも何の目標もなしに行動することはありません。何かを実現したいために行動するのです。
 それには物質的満足もあれば精神的満足もあるでしょう。いずれにしても人間の欲求を獲得するための行動です。すべての人は何かを実現したり、達成を意識せず行動することはありません。もし何も目標を持たずに行動すれば、時間と金の浪費になることがわかっているからです。
 これら三つの側面から人間の行動を分析し把握すれば必ず人間の本性が見抜けると思います。

 為政2-10「子曰く、其の以(もち)ゐる所(ところ)を視(み)、其の由(よ)る所を觀(み)、其の安(やす)んずる所(ところ)を察(み)れば、人焉(いずく)んぞ廋(かく)さん哉。人焉(いずく)んぞ廋(かく)さん(哉)。」

 孔子はいわれた。「其の以(もち)ゐる所(ところ)を視(み)」とはその人物の行動を観察する。「其の由(よ)る所を觀(み)」とはその行動がどんな理由でなされたかを観察する。「其の安(やす)んずる所(ところ)を察(み)れば」とはその行動の落ち着き先を推察すれば、「人焉(いずく)んぞ廋(かく)さん哉。人焉(いずく)んぞ廋(かく)さん(哉)」とはその人はどうして自分の真の姿を隠すことができようか、どうして隠せようか(隠すことができない)。


孔子廟出典:Bing


 論語の教え27:『人間の本性は過去どのように生きてきたのかを洞察することで見えてくる』

 臨床心理学者はカウンセリングするときに眼前のクライアントがどのように生きてきたのかを可能な限り過去にさかのぼり聴き取ります。クライアントの行動に対して否定も肯定もしません。ただひたすら聞くことに徹します。
 それは、クライアントの人格形成に影響を与えた要因や要素を分析し把握するために行うのです。実は、人事を理解する根本原理が過去にさかのぼることによって見えてくるのです。
 人事の第一の真髄は「その人の過去を知り、現在どのように生きているのかを観察する。そして、未来に向けて何を目指そうとしているのかを見抜くこと」です。
 本項はまさにこの人事の真髄にせまる孔子の人間観を語っています。それにしましても、本項にあるように、孔子の人間観察に対する慧眼には唯々(ただただ)、目を見張るばかりです。

 人事の第二の真髄は「人間の人格を尊重し多様性を尊重する」ということです。
 それは個々人の違いを把握し認識することを意味します。この世の中でただ一人として同じ人物はいません。にもかかわらず、私たちは他人(ひと)をステロタイプ(先入観や思い込み)で一括りにして見てしまいます。例えば、中国人はどうとか日本人はどうとか、また、男だからとか女だからとか、あるいは、年配者だから、若者だからというように束ねて見てしまう傾向があります。そして、違いを認めようとせず、自分たちの文化や価値観を他人に押し付けようとします。そこには理解しあうことや共感することはなく、不毛の対立や軋轢しかありません。
 最近の流行(はやり)言葉でいえば人間はダイバーシティ(多様性)を持った生き物です。その多様性を認めることが人事を進めるうえで最も大切な第一歩です。

 人事の第三の真髄は「人事は人と人の組み合わせだ」ということです。
 つまり、個人と集団の能力は別物であるということです。個人の能力の総和が集団の能力と必ずしも一致しません。いかに個人の能力が優れていたとしても集団でいい成果がアウトプットされるかというとそうではありません。むしろ、逆の場合が多いのです。どうしてでしょうか?
 神輿(みこし)に乗る人、神輿を担(かつ)ぐ人と言われます。集団でいい成果を出すには、それぞれの役割を果たせることが大切です。神輿に乗る人が多すぎても、担ぐ人が多すぎて指揮する人がいなければ集団の成果が期待できません。それがチームワークというものです。
 適材適所という言葉もあります。人にはその人の得意領域があります。その人に最適な仕事を分担してもらえば最高の能力が発揮できるというものです。それで、組織の足し算から掛け算へと変質を遂げるのです。(了)


論語に学ぶ人事の心得第25回 「私は弟子顔回(がんかい)に真の仁者を見た思いがした」

顔回像 国立故宮博物館蔵

 本項は最愛の弟子である顔回(がんかい)についての孔子の評価を述べたものです。顔回(がんかい)は姓を顔(がん)、名を回(かい)、字(あざな)を淵(えん)と言いました。孔子より30歳年少です。



 孔子からは徳=人格力の実践に優れていると評された、孔門十哲の一人です。
 生前に孔子から仁者と言われたのは3000人もいたと言われる弟子の中で唯一顔回(がんかい)だけでした。
 仁者とは儒教の最高教義である五常(仁・義・礼・智・信)の仁を悟った人という意味です。師からのこれ以上ない誉め言葉でした。他の弟子がとてもうらやましく思ったというのもむべなるかなと言えるでしょう。
 師にその将来を嘱望されましたが、孔子に先立つこと二年前に死去してしまいます。「天は我を亡ぼせり」と嘆かせた(論語先進篇8)と伝えられています。

 為政2-9「子曰く、吾(わ)れ回(かい)與(と)言ひて終日(ひねもす)、違(たが)はざること愚(ぐ)なるが如し。退(しりぞ)いて其の私(わたくし)を省(かえり)みれば、亦(おおい)に以(もっ)て發(ひら)くに足れり。回(かい)や愚ならず。」

 先生は言われた。「吾(わ)れ回(かい)與(と)言ひて終日(ひねもす)、」とは顔回と朝から晩まで話をしていると、「違(たが)はざること愚(ぐ)なるが如し」とは逆らわないさまはまるで間抜けのようだ。「退(しりぞ)いて其の私(わたくし)を省(かえり)みれば」とは私の前か退いた後の顔回(がんかい)の私生活を見ると、「亦(おおい)に以(もっ)て發(ひら)くに足れり」とは人をはっとさせるものがある。「回(かい)や愚ならず」とはやはり顔回(がんかい)は決して間抜けではない。

 論語の教え26:『我欲をコントロールし陰日向無く精進できる者こそ真の仁者である』

 顔回こそ真の求道者(きゅうどうしゃ)だ
 辞書によりますと求道者には「きゅうどうしゃ」と「ぐどうしゃ」という二つの呼び方があるようで
 「求道者」を「きゅうどうしゃ」と読んだ場合、意味は「真理や悟りを求めて修行する人」となります。一方「求道者」を「ぐどうしゃ」と読んだ場合は「仏道を求める人」といった意味になります。 仏教の教えや真理を求める人のことです。
 明らかに顔回は前者で、真理や悟りを求めて修行する人でした。仕官もせず、名誉を求めませんでした。貧窮生活にありながら人生を楽しみ、ひたすら仁の修養に邁進したと伝えられています。
 孔子は顔回の真理を追究する高潔な生き方を見て自分の後継者にしたかったようですが前述したように惜しまれて30歳年長の師より先にこの世を去りました。

 我欲をコントロールすることの大切さ
 我欲とは自分一人の利益や満足だけを求める気持ちのことを言います。この我欲は人間なら誰でも持っているものです。また、個人としての人間だけでなく、個人の集まりである集団にも我欲があります。人間である以上この我欲を捨て去ることは通常の場合あり得ません。


群雄割拠する春秋時代 出典:Bing


 さらに、この我欲は正しい方向に制御されていれば何の問題もないのですが、始末が悪いことに時々制御不能な状況に陥ります。この現象は個人にも集団にも同じように現れます。
 組織が制御不能な状況に陥ったら、大抵、大きな問題が発生します。それはその組織が存亡の危機に直面したことを意味しています。
 孔子の生きた春秋時代は小さな国家が乱立し、国家の我欲が暴発した時代でありました。全国各地で争いが絶えませんでした。個人のレベルでも我欲をむき出しにして覇権争いや土地の収奪に明け暮れていました。
 このような時代背景にあって、顔回(がんかい)は師との対話で細かな意見の相違があったとしても議論せず腹で包み込みました。本項の会話にあるように一見馬鹿ではないかと誤解されるほどでした。
 この時代に生きた人間としては珍しいほど自己主張のない素直な人でした。それでいて自分の意見がないのかというと決してそうでなく師の教えを自分なりに咀嚼して実践していたのです。この姿を伝え聞いた孔子は感じ入ります。
 顔回(がんかい)こそ仁者だと…。
 顔回(がんかい)は自分の人材育成方針を真に実践している逸材であると認識したのです。孔子の人材育成方針は前に述べましたように「自ら考え自ら実践する人材を育成する」というものでした。そのために、「三者三様の教え」「正解を導き出す思考過程の教え」「事実を検証することの教え」の三点を強調しました。(了)


論語に学ぶ人事の心得第24回 「孔子、孝を問われて四通りの孝行を語る―共通することは?」

子夏像 国立故宮博物館蔵

 論語では「孝」について孔子との対話が四回取り上げられています。今回はその最終項です。
 子夏は学而編1-7に初めて登場する孔門十哲の一人で、孔子より44歳若い優秀な弟子の一人でした。  子夏は字(あざな)です。姓は卜(ぼく)、名は商(しょう)と言いました。師をうならせるほどの文才の持ち主だったと伝えられています。それにしても孔子との年齢は40歳以上も開いており、前回の子游と同じように孫のような存在の弟子でした。
 孔子は子夏に対しても三者三様の教えに従い子游とは異なった回答をしています。

 為政2-8「子夏、孝を問ふ。子曰(いわ)く、色(いろ)難(かた)し。事(こと)有れば弟子(ていし)其の勞(ろう)に服し、酒食(しゅし)有れば先生饌(そな)ふ。是(これ)を增(かさぬ)るも以て孝と爲(な)らん乎」

 「子夏(しか)、孝を問ふとは子夏(しか)が先生に孝について質問した。先生はこのように言われた。「色(いろ)難(かた)し」とは親への敬愛の表情を表すのが最も難しい。「事(こと)有れば弟子(ていし)其の勞(ろう)に服し」とは行事があれば若いものが労力を出して働くこと。「酒食(しゅし)有れば先生饌(そな)ふ」とは酒や料理を先輩に進めること。「是(これ)を增(かさぬ)るも以て孝と爲(な)らん乎」とはそんなことをするだけで孝行と言えるかどうか」

 論語の教え25:『孔子の教えに共通する「孝」の形而上的意味合いをしっかり理解すること』


孔子廟 出典:Bing


 孝の現象的行為は100人いれば100通りある
 それぞれの家には長年培われた家風があります。先祖から引き継がれたその家のしきたりです。おおよそ、その家風は家長の生きざまを反映したものですが、地域社会の風俗や習慣など地域文化から影響を受けたものです。さらに、世代ごとに獲得した社会的地位や名誉、それに経済力が加わると社会には無数に近い生活様式が存在することになります。そのような生活様式に基づき親孝行の形が様々に形成されてきます。
社会的に成功した人は親孝行と称して先祖を祭る大きな墓石を建立します。また、大きく豪華な邸宅を建てたり、贅を尽くした生活をします。
 また反対に、普通の多くの人々はつつましやかに生きています。
 事程左様に現象面では、百様の生活があれば百様の親孝行の形があります。また、時代が変わればその現象的孝行のスタイルも変わります。
 しかし、どんなに時代が変化しても唯一不変の人間にしかできない孝行があると孔子が説いています。
「それは先祖や親を敬うことだ」
 これが孔子の説く「孝」の形而上的(形に現れない)意味合いです。敬いのない物質的な豊かさで親を扶養することは単なる見栄であり、浪費にしかすぎません。

 孝は強要されるものでなく、子孫が主体的に行う行為である
 ご承知のように親孝行にはされる側とする側があります。
 孔子の考えが卓越しているのは、子に対して一方的に親孝行を強いてはならないと教えていることです。親も生前には子や子孫から敬われる徳を積まなければならないというのです。
例えば、尊敬に値しない親がいたとします。親が老いて子供に親孝行を理不尽に要求したとしても子供から生んでくれと頼んだ覚えはないと反発されるだけです。現代社会では時々こんな話を聞くことがありますし親子の間で刑事事件を引き起こすような不幸な事件もあります。
 これらは「親孝行は子供の義務だ」と誤解している不遜な親が引き起こしていることが多いように思われます。
 ビジネス社会にも同様な現象があります。上司が部下に自分への尊敬を要求したとしたらどうなるでしょうか。その瞬間、上司と部下の信頼関係は修復不可能な絶縁状態になります。部下から尊敬される日々の上司の行為が長い間に蓄積されて信頼関係が構築されるのです。
 孔子の言う孝の形而上の意味合いは「親や上司への究極の孝行は子や部下から敬われることである。
 而もその行為は子や部下に強いるものではない」
 というのが孔子の教えです.(了)


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