論語に学ぶ人事の心得第76回 「君子の行動は一貫している。義(ただ)しいことのみを貫徹するのだ」

 本稿は五常の一つである「義」について孔子が語ったものです。ご承知の通り、五常とは儒教の教義である仁、義、礼、知、信のことです。義とは利欲にとらわれず、なすべきことをすることと定義されています。


出典:Bing

 論語第二編「為政編2-24」項でも「子曰く、其の鬼(き)に非(あら)ずして之を祭るは諂(へつら)いなり。義を見て為さざるは勇無きなり」と述べています。意味するところは、自分の先祖でもないのに祭るのは諂(へつら)いである。人としてなすべきことを見ていながら行動に移さないのは勇気のない人間であるということです。これは後世にまで語り継がれた有名な言葉です。このことを孔子が指摘したのは、ほかでもない、孔子の生きた時代は自分の先祖を祭ることが大変重視されました。
 しかし、この風習はだんだんと拡大解釈されて、有力者の先祖の霊魂まで祭る人が現れました。孔子はこのことを「義」に反する行動だと否定したのでした。このように、孔子は正しくない行為に対しては、誰であっても間違いを正そうとしました。孔子自身が正しい判断基準を持っていたからこその行動であり、それを決して、見逃そうとしない勇気があってこその行動だと思います。
 里仁編4-10「子曰く、君子の天下に於けるや、適(てき)無きなり。莫(ばく)無きなり。義にのみ之(これ)を与(とも)に比(した)しむ」
 師は言われた。「君子の天下に於けるや、適(てき)無きなり」とは他人から尊敬を受けるほどの立派な人は世の中において人に親切である。「莫(ばく)無きなり」とは薄情であることはない。「義にのみ之(これ)を与(とも)に比(した)しむ」とは、君子はただひたすら正しいことにのみ関心を持つのだ。

 論語の教え76:「人から尊敬を受けるような人は誰が正しいかでなく、何が正しいかで判断し行動する」


出典:Bing GE元CEO ジャック・ウェルチ


◆リーダーは主観的でなく客観的事実で判断せよ。
 人を指導する立場の人は「誰が正しいかでなく、何が正しいかで判断せよ」ということです。
 誰が正しいのかで判断すると忖度(そんたく)することや諂い(へつら)が出ます。人は権力者に阿(おもね)るからです。忖度とは、他人の心情を推し量って相手に配慮することです。とりわけ、権力者の意向を推し量って権力者の有利になるように周りが取り計らうことが問題です。諂(へつら)うとは人の気に入るように振る舞い、お世辞や追従(ついしょう)を言うことです。以前に「裸の王様」のことをご紹介しました。
 童話の世界の話ですが、現実の世界でも近い話を現代でも見聞きします。権力者である王様が賢いものにしか見えない布を織ることができるという詐欺師に騙されて、その布をまとって街をパレードします。王様の周りの人々や大人は素晴らしい服だと誉めそやすのですが、裸の王様を見た子供が「王様が裸だ」と叫ぶので騙されていることを気づかされるのです。往々にして、批判や反対を受け付けない権力者は、本当の自分がわかっていないということを教えたデンマークのアンデルセンという童話作家の代表作です。

◆リーダーは事実を把握したら鵜呑みにせず、必ず検証せよ。
 事実といってもそれが正しいかどうかは検証してみないとわかりません。自分の目で見た一次情報でも事実と思いがちですが、それとて検証してみないと事実かどうかわかりません。ましてや二次情報、三次情報になると事実かどうか怪しくなります。マスメディアによる情報はこの類型に入ると思いますが鵜呑みにできない情報が多いようです。それは必ず取材者の目でろ過された情報だからです。かつて、有名なマスメディアが捏造記事で世間を賑わしたことがありました。捏造記事とはありもしないことをさも取材したと偽って報道することです。
 私たちにはマスコミは正しい情報を流しているという錯覚や先入観もあります。何事もすべて疑ってかかれとまで言っているのではありませんが、大事な意思決定をする際の情報は必ず複数の検証をして誤った情報を用いないようにすることがリーダーの責務です。入手した複数の情報を分析し本質的傾向をつかむことも検証することと同時に欠かしてはならない大切なプロセスであることを付け加えます。

◆リーダーは事実に確信を持てたら果敢に実践せよ。
 ここまでのプロセスでリーダーの仕事は半分クリアしたことになります。まだ半分かと思う方がいるかもしれません。しかし、リーダーは一人ですべてやるわけではありません。せっかく正しい情報を把握しながら行動しなかった事例も山ほどあります。価値ある情報は部分的不可知の状態で入手することが多いからです。この部分的不可知の状態が価値を生むのですが乗り越えるにはリスクを伴います。勇気のないリーダーはそのまま見過ごしてしまいます。
 さらに、次のステップとして、意思決定した結果を関係先にコミュニケーションしなければなりません。優先順位をつける必要もあります。
 組織全体が方向を変えるためには様々な手続きが生じます。組織の規模により末端組織に浸透するまでに何階層も経なければなりません。リーダーの仕事は意思決定することだと思っている方もいますがとんでもない錯覚です。リーダーの仕事の大切な役割は執行管理です。
 執行管理とは何か? マネジメントを確実に行うことです。PDCAサイクルを回して組織全体に政策を浸透させることが最大の任務であると思います。


論語に学ぶ人事の心得第75回 「道徳的な真理の道を志すなら、粗衣粗食に拘(こだわ)ってはいけない」

子路像出典:ウィキペディア

本項で孔子は、道徳的な真理を探究する者は、粗衣粗食でなければならないと言っているのではありません。むしろ、孔子は実際の生活では美食を好み、その生活空間の隅々に美意識をもって貫いた人でした。
あくまでも、ここで孔子が言いたいのは求道心(きゅうどうしん)を持つ者は上っ面の些事にとらわれずに、徹底的に、本質を貫く生活態度を持てと説いているのです。弟子たちに、今一番大切なことは真理を極めることだと激励しているのです。学究であれば贅沢は二の次にすべきであって、何がこの時期大切なのかをよく考えろとも言いたいのだと思います。
孔門十哲の一人である高弟の「子路」は孔子の言葉を実践した人でした。「ボロボロの衣服を羽織り、上等の狐やムジナの毛皮コートを着ている人と並んで立っても、恥ずかしがらない者がいるとすればそれは子路だろう」と孔子は評価しています。

 里仁編4-9「子曰く、士、道(みち)に志(こころざ)して、而(しか)も悪衣悪食(あくいあくしょく)を恥ずる者は、未(いま)だ与(とも)に議(はか)るに足らざるなり。」
師は言われた。「士、道(みち)に志(こころざ)して」とは道徳的な真理を追究しようとする者
で、「而(しか)も悪衣悪食(あくいあくしょく)を恥ずる者は」とは粗末な衣服や食べ物を恥ずかしがる者は、「未(いま)だ与(とも)に議(はか)るに足らざるなり」とはまったく問題にならない。

論語の教え75:「物事の本質を見極めよ、人は外見だけで、評価してはならない」

◆洞察力で物事の本質を見極めよ
 洞察力とは、「物事の本質を見抜く力」のことです。
 ただ漫然と世の中の景色や人物を見ていたのでは見れども見えずとなります。
 洞察力は、「表面的な部分」を含め、さらにそこから「見えていない部分」まで見抜いていく力のことだと言い換えることもできると思います。
 そこには日常的に「問題意識」と「意識的観察力」が備わっている必要があります。皆さんの周りには情報を的確に把握し仕事に有効に活用している人はいませんか。情報は誰にでも降る星のごとく飛び込んできます。情報収集の上手な人には、鋭い問題意識を持っている人が多いです。
それでは、問題意識とは何でしょうか?
 問題意識とは解決しなければならない問題を複数、頭に描いて、どうすれば問題解決できるかを常にシミュレーションしていることを言います。因みに問題とは「ありたい姿」と「現実とのギャップ」のことを言います。問題には公私の両面があります。両者には不可分の関係が存在するからです。家庭円満な人は仕事も順調に運びます。
意識的観察とは何でしょうか?
 耳で集めた情報を同じように、問題意識を以て目で検証し確認することです。ただ目で見るだけでは見えるだけで見抜くことはできません。冒頭に述べたように見れども見えずになってしまいます。
また,本質を見抜くには、これだけで十分ではありません。皆さんは何を想像されましたか?さらに、必要なのは「心」です。「心眼(しんがん)」という言葉があります。辞書には 物事の真の姿をはっきり見分ける心の働きとあります。何事も心を込めて聴き、真剣に見なければ本当の姿はわからないということの教えだと思います。

◆眼は心の窓である。眼は真実の姿を語り掛けている。


 嘗て、私はインドの地方都市を視察団の一員として訪ねたことがあります。ムンバイから100キロくらいも離れたのどかな田園地域でした。当時のインドは絶対貧困の国と言われ、自力で経済発展ができない国の一つだと言われていました。
 二週間にわたって十数か所を視察しました。訪れた町のすべてが汚れていて、人だけがあふれかえっていました。テレビでしか見ることができなかった、まさに、混沌と喧騒の町が広がっていました。
 しかし、一つだけ救われた思いをしました。それは、会った人すべての目がきれいで輝いていることでした。リーダーも、中堅幹部も、一般の方も、すべてと言っていいほどです。私にはとても印象的で今日でも彼らの目の輝きを忘れることはできません。私たちは、今は貧しいけれど、輝かしい未来が待っている。私たちは未来を自分たちで作り上げるのだと私たちに語り掛けてくれているように感じました。
 以来30年も経ちました。果せるかな、インドの人々は、今日の発展を現実のものとしました、それにしても先進国と言われる国々の人々は、このインドよりはるかに豊かな生活を実現しているにもかかわらず、目に力強さが微塵も感じられない人が多いと感じられるのは私だけでしょうか。

◆人事の本質は人々に将来の夢を描かせることである。
 人事の基本は会社のビジョンを実現することです。組織も人も将来の夢を描き、それを懸命に現実のものとするために努力します。そこには、多少の矛盾や不満があっても人々は我慢できます。組織にとって、個人にとって、将来に希望を持てないほど働く意欲を削がれることはありません。
 組織の将来の夢を実現するために一緒に頑張ろうではないかと経営者に呼びかけられたらそれを断る人はまずいないと思われます。ところが、多くの場合、経営者は社員の経営参画には否定的です。社員は指示命令されたことだけをやればいいというわけです。
 このような組織風土の会社では社員は報酬にのみ関心があり、仕事に動機づけられるより、給与にのみ動機づけられることになります。いきおい視点は短期的になります。将来のことなど問題外です。将来に夢を持たなくなればどんなことが起こるでしょうか。
 大きく二つの組織的な病が生じます。一つは構成員が内向き指向になることです。一番恐ろしいことは顧客の都合を無視して、社内の都合を優先することです。簡単に言えばお客が無理難題を吹っ掛けるから悪いのだという他責思想が蔓延してきます。二つ目は革新力を無くしてしまうことです。企業は本来環境適応業です。環境変化を無視しては企業を発展させることは不可能です。
 多くの企業は二つの組織的病に気付かず一生懸命仕事をして企業を没落させています。組織も個人も本質を見抜く力を無くすと取り返しのつかない事態を招くことを断じて忘れてはなりません。(了)


論語に学ぶ人事の心得第74回 「穏やかな安定した社会が到来したら、思い残すことはない。私は天命に従う」

 本項はリーダーの真情を語る大変有名な言葉です。儒教を開いた孔子の万感の思いを吐露しています。「道」とは五常が花を開いた理想郷だからです。


 当時の弱小国「魯国」を取り巻く環境は、いつ他国に攻め込まれて国が滅びても不思議ではない緊迫した春秋という時代背景にありました。しかも、国政は三桓という貴族に実権を握られ、君主ですら操(あやつ)られていました。
 いつ起きるとも知れない下剋上の世界でしたから、夢を見るような話です。孔子の言う「道」とは穏やかで安定した理想的な社会(ユートピア)を実現することです。そんな社会が実現できたら、その日に天に召されても悔いはないと孔子は思わず弟子を前に本音を吐いたのでした。
 孔子は簡単に「道」が実現できないことは百も承知していました。だから、ありえない現実を前にして、自分の夢を語り、夢が現実のものになるなら天命に従い、いつでも天国に行く覚悟ができていることを語ったのでした。
 後世にも、乾坤一擲の事態に直面したリーダーがしばしば口にしたのもこの言葉です。本当に死ぬかどうか別として、命を賭して与えられた責務にまい進するリーダーの気迫の籠った言葉として心情にあふれています。

 里仁編4-8「子曰く、朝(あした)に道を聞けば、夕(ゆうべ)に死すとも可なり。」
 師は言われた。「朝(あした)に道を聞かば」とは、朝、節度と調和にあふれる理想的な社会が到来したと聞いたら、「夕(ゆうべ)に死すとも可なり」とはその夜死んでもかまわない。

論語の教え74: 「命を賭して取り組んだ生涯目標に到達できれば、いつでも身を引く覚悟だ」


◆事をなすとは内在する二人の自己との戦いで勝利すること。
 本項での孔子の教えは事業を起こしたすべてのリーダーに当てはまる教えだと思います。
 すべてのリーダーは、当初崇高な使命感を持ち、豊かな想像力を発揮して、事業を始めます。事
業が成功し始めると心の中にあるもう一人の私利私欲という自分が頭を持ち上げてきます。もう
一人の自分を自制心でコントロールできる人は次の発展へと駒を進めることができす。
 為政編2-1「子曰く、政(まつりごと)を為すに徳を以てす。譬(たと)えば、北辰の其の所に居て、衆星(しゅうせい)の之に共(むか)うがごとし」とあります。これはいわゆるガバナンスのことですがすべての組織を率いるリーダーに言えることです。北辰とは北極星のことです。この意味するところは「北極星のようにリーダーは徳を以て燦然と輝け、そうすれば多くの人々はリーダーの剣や権に従うのではなく、徳に従うようになる」ということです。
 しかし、世の中はそう簡単に進みません。多くの場合には自己制御が効かなくなって、せっかく築いた事業や組織を崩壊させてしまうのもまたリーダーです。人類の歴史はその繰り返しであったと言っても言い過ぎではないでしょう。「人間とは愚かさと賢明さを同居させた生き物である」いえると思います。
 それだけに一人の人間を神聖化し、妄信してはならないのです。

◆自然人には限りがあるが、法人は永遠に続く
 これも当たり前の話です。どんなに優れたリーダーであっても永遠の存在ではありません。必ず、終わりがありす。しかし、社会が必要と認める限りは、法人には終わりがありません。何百年と続いている国家や企業があります。今から20年ほど前に「ビジョナリーカンパニー」という著書がベストセラーになったことがありました。その本の中に「時を告げる人を作るのではなく、時計を作る人を作れという」言葉ありました。この言葉の意味するところは「組織にはカリスマ的指導者はいらない。永遠に社会に価値を届けられる仕組みを作れ」という意味です。本項で取り上げられているテーマと全く同じ意味です。
 ビジョナリーカンパニーに共通するのは次のような特徴が備わっています。
 第一に、一貫性を持った基本理念がある。
 第二に、カルトのような文化を持っている
 第三に、基本理念を共有する。
 第四に、時計を作る経営者がいる
 第五に、二者択一でなく、両方を成立させる
 第六に、シンプルなコンセプトに特化した戦略を持っている

◆リーダーは晩節を汚すことなく、後進に道を譲る
 「成功者は成功したのと同じ理由で失敗者になる」との格言があります。失敗は成功の母とは与よく聞く言葉ですが、その逆説で、成功は失敗の母というわけです。一方、政治的な格言で「権力は必ず腐敗する」という言葉もあります。
 これらの言葉には不思議と訴える真実の強さのようなものを感じます。おそらく、頭の中で考え出された観念的な真理ではなく、現実の現象から導き出された経験法則であるからだと思います。
 而も、一度や二度ではなく、何度も何度も繰り返し起こっている現象でもあるからだと思います。古(いにしえ)の時代から今なおかつ引き起こされることに驚きを禁じざるを得ません。私自身の短い人生の中でも、いくつも晩節を汚す事例を目の当たりにしてきました。
 なぜ、このようなことが繰り返されるのか、その背景を考えてみたいと思います。
 一つは、事業の私物化です。事業を自分の子供と錯覚していることです。晩節を汚しているリーダーの最大の要因の一つです。
 二つは、自己過信です。時代が変化しているのに過去と現在が同じであると錯覚していることです。
 三つは、他者不信です。自分以外誰も信用しません。極端な事例として自分の子息も信用せず廃嫡します。
 これらは、すべて老化現象による正常な思考力と判断力を喪失した結果であり、周りはすべてわかっているのですが、気づいていないのは本人だけです。悲劇が起こる前に組織としてこれらを回避することを考えておく必要性があります。(了)


論語に学ぶ人事の心得第73回 「人の過ちを見れば、仁の人か、不仁(ふじん)の人かおおよその見当がつく」

出典:Bing

 本項では人間の特性をマイナスの行為から見抜けることを指摘したものです。
 「各々(おのおの)其の党に於いてす」とあるように党とは人の範疇のことで人柄を意味します。  つまり、犯した罪(過ち)を見れば、その人の人柄が類推出来というのです。
 ここでも孔子は「人は環境の動物である」と言っているのです。人はそれぞれの立場で社会生活を行っています。その役割や地位に応じた過ちを犯してしまいます。
 例えば、君主であっても、一般庶民であっても、役人であっても、軍人であってもそこに当てはまる過失を犯すのです。そして、犯した過ちを見れば仁の心を持っている人か、不仁(ふじん)の人か見分けることができるというのです。これは、誰にでもできる話ではありません。孔子にしかできないことなのかというと「そうではない」と私は思います。なぜ、孔子は本項で人の特質を見抜くことを取り上げたかということですが、弟子に対して人の特質を見抜く基準の大切さを説いているのだと思います。仁か不仁(ふじん)かを見抜けるのは基準をしっかりと習得することです。
 孔子は弟子に仁か不仁(ふじん)かを見抜く確かな目を持つことを奨励しているのだと私には思えます。だから、五常を学び、実践し、身体で覚え込むこと、すなわち、悟りをすることの大切さを訴えているのです。
 里仁編4-7「子曰く、人の過(あやま)ちや、各々(おのおの)其の党に於いてす。過ちを観れば、斯(ここ)に仁を知る。」
師は言われた。「人の過(あやま)ちや、各々(おのおの)其の党に於いてす」とは人が過失を犯すのはそれぞれの類(たぐい)による。「過ちを観れば、斯(ここ)に仁を知る」とは過失を見ればその人の仁のほどが見える。

 論語の教え73:人事の基本は「人は、過去にどのような生活をしてきたのか?現在、どのように人生を送っているのか?未来にどのような目標を以て人生を切り開こうとしているのか?」を把握することである。

◆人間の過去はその人の人格が形成された期間である。
 人事は一人ひとりの違いを把握することが基本です。
 一人ひとりの違いを把握するために最も大切なプロセスはその過去をさかのぼり、人格形成のプロセスを分析することです。そのために人事担当者の大切なスキルはカウンセリングスキルを習得することです。カウンセリング技法は「訊く」「聞く」「聴く」の三つです。
 「訊く」とは質問技法のことです。効果的な質問により相手が話したくなる状況を作り出すことです。


出典:Bing


 「聞く」とは関心を示すことです。まじめな関心を示すことで相手は信頼を寄せることになります。「聴く」とは共感的理解を示すことです。単なる同情を示すことではありません。共感的理解とはあたかも自分が感じているかのように感じ取ること、しかも同時に、それに巻き込まれない冷静な立場を保つことです。人の体験には、簡単に他人に話せないような過去があります。よほどの信頼関係がないとその過去を他人に話すことはまずありません。
 でも相手が共感的理解を示してくれれば心の扉を開き始めます。これを心理学ではラポートがかかると言います。質問者と答える人との間に心と心の懸け橋ができることを言います。こうなればしめたものです。大抵の人の過去にどのような形で人格形成されたか手に取るようにわかります。
ここで、聴き手にとって大切なことがあります。話し手が語ったことは口が裂けても他言してはならないことです。他言するようなことがあれば信頼関係は一瞬にして崩壊し、以後いかなることがあっても復元することは絶対にありません。

◆人間の現在は新しい人格を模索する期間である。
 時間軸でいえば人間の過去と現在は決して切れることはありません。過去の蓄積の中に現在があることには間違いがありません。しかし、人間には大切な価値観があります。価値観は本編でよく話題になるように環境との相互作用です。人格は環境によって影響を受けながら形成されてゆくのです。そして私たちは、変える必要のある過去と変えてはならない過去を常に共存させながら生きています。孔子はこの二面性を常に意識していました。ことあるごとに弟子を励まし、徳を積むことにとって新たな価値観を習得することを弟子たちに説きました。本編「里仁」に流れている思想は、徳を積むことは、単に無盲目的に他人に思いやりを注ぎこむことではなく、品性の下劣なものに対してはそれがだれであっても率直に批判し是々非々で対応できる人こそ仁徳者だと教えました。他人を巻き込みながら、未来に向かって確固たる意志を築き上げる生活を送ることが現在なのです。

◆人間の未来は新しい人格を形成する期間である。
 そして、未来は自ら掲げたありたい姿を鮮明にイメージすることです。人間には誰にでもミッショ(使命患)、ビジョン(夢)、バリュー(価値観)があります。それは、意識するとしないのでは大違いです。そしてそれらを目的として到達点としての目標があります。もし、私たちが目標を掲げなければ何を目指して生きるのかを見失います。
 人生は経済的豊かさを追求するだけでは不十分です。経済的豊かさや権力を追求するだけで人生は空虚です。それらはあくまでも結果にすぎません。とりわけ、孔子はそれに執着する人を認めませんでした。弟子の中でも、五常に生きる人を信頼し評価しました。前にも述べましたが、孔子は富裕に夏ことを決して否定していません。金や権力の亡者になるなと言っているのです。(了)


論語に学ぶ人事の心得第72回 「私(孔子)の周りには、仁を用いることに能力の不足を感じた者は誰もいなかった」

孔子と弟子たち:出典Bing  

 孔子は弟子に対して非常に面倒見のいい師でした。  
 論語第一篇学而編で多く取り上げられているように弟子の一人ひとりの能力や性格の違いを的確にとらえ指導していました。
 まさに、人事の極意を地で行くような指導方法でした。
 時には、本項でもあるように、仁を用いることに尻込みする弟子たちを励ましながら学び続けることの大切さを説きました。厳しいだけでは、弟子は付いてきません。3000人もの弟子を従えたのは、一人ひとりの弟子に対して肌理(きめ)細やかに、しかも根気よく指導したからに違いありません。もちろん、孔子の唱えた五常五倫の教義と孔子自らそれらを実践している姿が弟子を魅了したことは言うまでもありません。
 「私(孔子)は仁を用いることに能力の不足を感じた者は周りに誰もいなかった」と孔子が言い切れるのは指導者としての弟子を含む他人の本質を見抜くことができる自信だと思います。「そういう人(能力に不足する人)は、いるかもしれないが、少なくとも私(孔子)は見たことがなかった」とも語っています。これだけで、孔子に指導を仰ぐ弟子たちは、本当に向学の精神に燃えた人たちの集団であったことを垣間見ることができます。
 やはり、弟子たちは学びの環境が整っていたからこそ、向学の志を持った人が多く集まったのでしょう。本編の最初4-1でもとりあげられている通りです。

 里仁編4-6「子曰く、我れ未(いま)だ仁を好む者(もの)、不仁(ふじん)を悪(にく)む者を見ず。仁を好む者は、以(もっ)て之(これ)に尚(くわ)うる無し。不仁を悪(にく)む者は、其れ仁を為(な)さん。不仁者(ふじんしゃ)をして其の身に加えしめず。能(よ)く一日も其の力を仁に用うること有らんか。我未(いま)だ力の足らざる者を見ず。蓋(けだ)し之れ有らん。我未だ之を見ざるなり。」
 師は言われた。「我れ未(いま)だ仁を好む者(もの)、不仁(ふじん)を悪(にく)む者を見ず」とは私は(孔子)は本当に仁を好む人間、本当に不仁を憎む人間に会ったことがない。「仁を好む者は、以(もっ)て之(これ)に尚(くわ)うる無し」とは仁を好む人間にはまったく申し分がない。「不仁者(ふじんしゃ)をして其の身に加えしめず」とは不仁(ふじん)を憎む人間もやはり仁を行っていることになる。「能(よ)く一日も其の力を仁に用うること有らんか」とは不仁を悪む人も、また決して不仁者の悪影響をうけることがない。誰だって一日くらいは自分の力を仁に用いることができるものがいるとしたら。「我未(いま)だ力の足らざる者を見ず」とはその力に不足する人間を見たことがない。「蓋(けだ)し之れ有らん。我未だ之を見ざるなり。」とは、いやそういう人間はいるかもしれないが、私(孔子)は未だそんな人間に会ったことはない。

論語の教え72:「人間の潜在能力は湧きいずる泉の如し、仁の心は必ず開花する」
◆リーダーは部下の足りなさをあげつらう前に、どうすれば不足を補えるか考え指導せよ。
 長らく人事のコンサルティングをしていますと多くの経営者や人事担当者とその組織の管理者などと交流します。その中で体験し共通していることを二点述べたいと思います。
第一点は、上司でありながら、部下の能力不足を指摘する人がいかに多いかということです。
私はこのような人は自分の指導力の無さを公言しているようなものだと思います。自分のことはさておいて、部下の欠点だけ気になります。そして、部下を十把一絡げにして、一人ひとりの個性や違いを見ていません。「人事は他との違いを認識するとから始まる」という格言があります。人間はこの世の中で、一人として同じ人はいません。その個性を大切にすることが人事の基本です。


 人事コンサルティング活動をしていますと少数派ですが、立派に指導力を発揮している人にも出会います。このような優れた人には部下の不足を指摘する人は誰もいません。これらの人は部下をよく観察し、部下をどのようにすればやる気にさせるか知っていて指導力を発揮しているからです。
部下の欠点を他人に言う前に、自分自らの指導で部下の欠点を黙って補い、誰にも自慢げに言いふらしません。それがリーダーの責任であることをよくわかっているからです:
 孔子の弟子を指導する方針と非常によく似ていると思います。
 第二点は、いくら指導しても部下がなかなか変わらないと指摘する人がいかに多いかということです。
 これも人に対する無理解から来ています。人間のパーソナリティは深層部分から気質、性格、態度、技能、知識で構成されています。気質は親から受け継いだものですから可変要素はほとんどありません。性格も幼少期に形成されますので変容させるのは不可能に近いと思います。積極性や協調性のない人に急に変われと言っても無理だからです。これらは採用基準の問題です。自社の採用基準が明確であれば採用試験でチェックできるからです。性格の合わない人を採用しなければいいという簡単な話です。
 可変要素があるのは態度と技能、知識ですが、それでも長い間にその組織に沁みついた慣行は個人の態度を変えれることを難しくしています。人を態度変容させるには組織的対応と個人的な対応の二側面があることを忘れてはなりません。つまり、組織的対応とは職場風土を変革させることであり、個人的対応とは一人ひとりの特徴を把握し、その人に合った指導をすることです。孔子が弟子の指導に用いた全く同じ方法を用いることが絶大な効果を発揮すると思います。。

◆自己の可能性を信じて生きている人には、自己に否定的な、消極的な人は集まってこない。
 自己の成長の可能性を否定した途端に、人は人生に希望を持てなくなります。人はなぜ生きるのかと問われたら、私は自分の可能性を追求するために生きるのだと答えたいと思います。そして、自分の可能性を追求して生きていると、不思議にそのような人々と人間関係ができるようになります。 
絶えず前向きに生きていれば、結果としてその可能性は現実のものとなっていきます。ポール・J・マイヤーいうアメリカ人は自分の体験から「成功とは予め目標を設定し、それに向かって一つずつ近づいていくことである」と言っています。同じような価値観を持ち、同じような志で同じ行動をしていれば、当然のことですが、同じような果実を享受することができます。そして、多くの共感者が生まれ、個人から始まった活動はグループへと発展し、組織全体へと広がるのです。
 一方、消極的な人も、後ろ向きな人で集団を形成します。これらの集団の中で、前向きな生き方をすることはできません。この集団を抜け出せば、自らの考えを変えることは可能になりますが、いったん入り込んでしまうとよほどのことがない限り抜け出せません。ただ、いたずらに時間が過ぎ、後に残るのは後悔だけです。

◆人は生まれながらにして仁の心を持っている。それをどう顕在化させることができるかだ。
 人は生まれながらに悪い人はいません。生まれてから育つ環境により人格が形成されるのです。
小学校の教師の話です。一人の児童があまりにも授業を妨害し、学級崩壊が近づいたことに危機感を持ったその教師は、親に相談のために自宅訪問しました。親に会ったところ、子供以上に性格異常者でありました。とうとう、自宅訪問をした目的を明かせず帰らざるを得なかったという述懐を聞いたことがあります。そこで、その教師は現状とはかけ離れた困難な選択をしました。親に変わってその子供を指導し善導することを決断したのです。私は、厳しい環境下での決断を下した教師の勇気に敬意を表さざるを得ませんでした。
 一朝一夕に成果を期待できない話です。逃げないで正面から問題に立ち向かったなら、その成否にかかわらず、私は得るものが多いと思います。これも前に述べたことですが、どんな人の心の中にも仁の心と不仁(ふじん)の心が併存しています。両者はいつも一人の人間の心の中でせめぎ合いをしています。このせめぎ合いを激しくさせ、仁の心の占有度合いを大きく顕在化させることで成功が可能であると私は確信しています。教師に心からの声援を送りたいと思いました。(了)


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