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論語に学ぶ人事の心得第十三回 「周りから尊敬されるような生き方をするにはどうするか」

 今回の教えは、弟子に学問する意義を説いています。孔子がいう君子とは、弟子に期待する人物像です。周りから尊敬を受ける、いっかどの立派な指導者になるには経済的豊かさを求めるだけでなく人格を磨かなければならないと諭しているのです。とはいいましても弟子に極端な貧しい生活を求めているのではありません。
 ここで孔子の教えを真に理解する上で見落としてならないのは、孔子は象牙の塔にこもって学問するのではなく学んだことを実践し、実践の中から学ぶことについて、身をもって教えていることです。だから、何事に対しても勇気をもって果敢に行動しますが、言動には常に慎重であり、徳を積んだ人の教えを謙虚に伺い反省することの大切さを説いているのです。
 学而1-14「子曰(いわ)く、君子は食飽(あ)くを求むる無かれ。居安きを求むる無かれ。事於敏(と)くし而(て)言(こと)於(に)愼(つつし)め。道(みち)有るに就(つ)き而(て)正(ただ)せ。焉(いずく)んぞ學を好むと謂(い)ふ可き也(なる)已(み)や」

 先生は言われた。「君子は食飽(あ)くを求むる無かれ」とはいっかどの立派な人物は食うことに満足感を求めてはならない。また、「居安きを求むる無かれ」とは快適な住居を求めてはならない。「事於敏(と)くし而(て)言(こと)於(に)愼(つつし)め」とは仕事する際にはてきぱきと処理し、言葉は慎重に発言する。「道(みち)有るに就(つ)き而(て)正(ただ)せ」とは道義を体得した人の批判に耳を傾けること。學を好むと謂(い)ふ可き也(なる)已(み)や」とは真に学問が好きな人と言える。

 論語の教え14:「経済的豊かさを求めて欲望の奴隷なるのではなく欲望を制御すること、そのためには学を極めよ」

 私たちは何のために生きるのでしょうか?
 私たちは何のために働くのでしょうか?
 私たちは何のために学ぶのでしょうか?

 第一の教え:人生を送るための目的と手段をはき違えるな
 孔子は過度に物質的欲求を求めることを否定していますが極貧の生活を推奨しているのではありません。リゴリズムといった禁欲生活を求めているのでもありません。孔子の考えはもっとのびのびした柔軟性に富んだものでした。
 経済的な豊かさを追求することを人生の目標にして欲望の奴隷になるなと言っているのです。そして欲求に使われるのではなく欲求を制御できる人でなければなりません。
物質的欲求には際限がありませんし、欲求のままに生きることは人生を送る目的ではないからです。あくまでも徳(仁・義・礼・智・信)を積むことが人生の目的であり、経済的豊かさはその手段に過ぎないのです。理想を言えば徳を積む人生を送る中で結果として物質的豊かさを獲得することができれば最高です。
 さらに実践的学問を習得することにより、知の探究こそがいい人生を送る上での最高価値であることが次第に認識できるようになります

 第二の教え:人間の行動の原点である二つ動機に注目せよ。
 二つの動機とは動機付け要因と衛生要因です。米国の心理学者F.ハーズバーグによって提唱されたモチベーション理論です。
 ハーズバーグは、仕事に対する満足をもたらす要因と不満をもたらす要因が異なることを示し、前者を動機づけ要因、後者を衛生要因と呼びました。
 動機づけ要因には、仕事の達成感、責任範囲の拡大、能力向上や自己成長、チャレンジングな仕事などが挙げられます。
 衛生要因には、会社の方針、管理方法、労働環境、作業条件(給与・労働時間福利厚生・身分)などが挙げられます。
 動機づけ要因を与えることにより、「満足感を高め」「やる気」を向上させることができます。社員は与えれば与えるほどやる気を出すのです。
 一方、給与を上げるなど衛生要因に対して手を打つことにより、不満は解消されますが、そのことが「満足感」や「やる気」を高めるとは限りません。また、に現状より低くなった途端にやる気を無くすという始末が悪い要因です。(了)


論語に学ぶ人事の心得第十二回 「周りから信頼される生き方をするにはどうすべきか」

 前回に続き、本項も有子の言葉です。有子の言葉は論語に四回収録されていますが三回はこの学而編に登場します。
 学而1-13「有子曰く、信(まこと)の義(ただ)しき於(に)近きは、言(ことのは)復(ふ)む可(べ)き也。恭(いや)の禮(れい)於(に)近きは、恥辱(はずかしめ)を遠(とお)ざく也。因(たよ)るの其の親(みうち)を失はざるは、亦(おおい)に宗(あつま)るべき也」


信(まこと)とは約束を守る誠実さ。言明や約束をどこまでも通すという意味がある。義(ただ)しき於(に)近きとは筋が通っていること。言(ことのは)復(ふ)む可(べ)き也とは言葉通り実行できること。恭(いや)の禮(れい)於(に)近きとはうやうやしさが儒教の礼法にかなっていること。恥辱(はずかしめ)を遠(とお)ざく也とは辱めを受けずに済むこと。因(たよ)るの其の親(みうち)を失はざるはとは信頼すべき人を選ぶ際には親しく近づくにふさわしい人を見失わないこと。亦(おおい)に宗(あつま)るべき也とはこのようにすればまわりから尊敬されるということ。

 論語の教え13:「周りから信頼されるには以下三つのことを心掛けて実践する」
 第一 約束を守り、言行一致させること。
 第二 常に礼儀正しく慇懃無礼でないこと。
 第三 周りから尊敬される交友関係を築くこと。

 第一の教え 約束を守り、言行一致させること。
 言うは易く、行うは難しです。約束を守ることと言行一致させることは他との信頼関係を築く根本原理でもあります。論語ではしばしば信(まこと)という言葉が用いられています。信(まこと)とは約束を守る誠実さ。言明や約束をどこまでも通すという意味があることは前述したとおりです。この教えは社会の最小単位である家族から始まります。家庭内で約束を守れなかったり、言行一致しない人に家庭外でそれが実行できるとは到底考えられません。あらゆる人間関係に当てはまることです。とりわけ上に立つ人は心して実践しましょう。

 第二の教え 常に礼儀正しく慇懃無礼でないこと。
 誰に対しても社会通念に従い礼儀正しくありたいものです。部下に対して威張り散らすのに上司にゴマをするひとがいます。上司の風上(かざかみ)にもおけない人です。また丁寧すぎて、丁寧であることがかえって相手に不快感を与えてしまうことを慇懃無礼と言います。慇懃無礼な人は礼儀を形で整えていますが心がこもっていないから相手に響かないのです。
 六然という言葉がありますので紹介しましょう。どんな場合にも私たちが心得ておかなければならない心のありようです。
 ◆自處超然(ちょうぜん<自ら処すること超然>)
  自分自身に関してはいっこう物に囚われないようにする。
 ◆處人藹然(あいぜん<人に処すること藹然>)
  人に接して相手を楽しませ心地良くさせる。
 ◆有事斬然(ざんぜん<有事には斬然>)
  事があるときはぐずぐずしないで活発にやる。
 ◆無事澄然(ちょうぜん<無事には澄然>)
  事なきときは水のように澄んだ気でおる。
 ◆得意澹然(たんぜん<得意には澹然>)
  得意なときは淡々とあっさりしておる。
 ◆失意泰然(たいぜん<失意には泰然>)
  失意のときは泰然自若(じじゃく)としておる
 ここでは言葉の意味を詳しく解説しませんが賢明なみなさんは字面からお察しいただけるものと思います。

 第三 周りから尊敬される交友関係を築くこと。
 「あの人は素晴らしい人だけど、彼の友人は信頼できない」「あの部長は立派だけれど取り巻きがよくない」といった評判を聞くことがあります。人間は神様ではないので全(まった)き存在ではありません。長所も欠点もあります。しかし、大切なことは第一の教えや第二の教えに欠陥のある人との交友は極力避ける必要があると思います。部下のそのような噂を耳にしたら上司として直ちに事実を確認し是正する必要があります
 なぜなら、あなた自身も欠陥があるかもしれないと思われるからです。
 これまで長年にわたり苦労して信頼関係を構築してきた交友関係にヒビを入れてしまうことになりかねません。それにとどまらず、交友関係が崩壊することになりかねません。

(了)


論語に学ぶ人事の心得第十一回 「社会人のマナーについて:社会人の生き方には周りとの調和を大切にして生きることと理想を追求して生きることと均衡させることが重要である」

 有子は孔子の高弟の一人で学而編の1-2に出てくるのと同一人物です。姓は有、名は若、字(あざな)は子有といいます。孔子没後有子(有先生)と尊称されます。『孟子』によれば、顔が孔子に似ていたとも言われています。孔子の代わりに一門のリーダー的存在に押そうとされますが弟子の一部が反対し、纏まらず結局、沙汰やみになったと伝えられています。生没年未詳です。孔子との年齢差については、『史記』では46年少、『孔子家語』古本では33年少、現行本では36年少とするなど諸説あり正確にはわかっていません。
 学而1-12「有子(ゆうし)曰(いわ)く、禮(れい)の和(わ)を用(もっ)て貴(とおと)しと爲(な)すは、先王之(の)道にして、斯(こ)れを美(び)と爲(な)す。小大(しょうだい)之(これ)に由(よ)るも、行はれざる所有り。和を知り而(て)和すれども、禮(れい)を以(もっ)て之(これ)を節(ただ)さざらば、亦(おおい)に行はる可(べ)からざる也。」

 「禮(れい)の和(わ)を用(もっ)て貴(とおと)しと爲(な)す」とは礼法が調和をおもんじること。禮(れい)とは元服の儀式、婚礼、葬礼など社会行事に関する作法全般のこと。「先王之(の)道にして、斯(こ)れを美(び)と爲(な)す」先王とは昔の王。とりわけ聖天子とされる堯(ぎょう)や舜(しゅん)や禹(う)、殷(いん)の湯(とう)王や周(しゅう)の文(ぶん)王・武(ぶ)王を指す。その王たちが実践した禮(れい)のやり方が素晴らしかった。「小大(しょうだい)之(これ)に由(よ)るも」とは、大きいことも小さいことも何もかも調和を大事にするとかえってうまくゆかなくなる。「和を知り而(て)和すれども、禮(れい)を以(もっ)て之(これ)を節(ただ)さざらば、亦(おおい)に行はる可(べ)からざる也」とは、調和させること大切さを認識して調和させるにしても、やはり礼法を以てそれに節度を加えないと、規律が維持できない」

 論語の教え12:「社会人のマナーについて:社会人の生き方には周りとの調和を大切にして生きることも大事であるが自分が掲げた理想を実現させるために生きることと均衡させることが大切ある」

人間の行動は環境とパーソナリティーの関数である
 唐突ですが、これは行動科学の創始者でアメリカのハーバード大学教授でもあったクルト・レヴィン博士の言葉です。
 博士はB=F(E P)という方程式を導き出しました。
 BはBehavior(行為)です。FはFunction(関数)でEはEnvironment(環境)、PはPersonality(人格)です。要するに人間の行動はその人が所属する生活環境とその人の人格で決まるというものです。人は生まれて、社会の最小単位である家族の影響を受けます。学令期に達すると先生や友人との人間関係の中から自我に目覚めてゆきます。社会に出てからは上司や同僚との人間関係から自己研磨します。このようにおよそ人間は生まれてからりあしてゆい過ぎではありません。
 ここで大切なことは二つあります。
 その第一は、「環境は与えられるものばかりでなく、自ら作り出すものだ」ということです。ご承知の通り、幼少期は選択の幅が小さいのですが齢を重ねるにしたがって人生の岐路に立つ選択が求められます。それらは職業の選択であり、人生を共にするパートナーの選択です。人生を成功させた人は岐路に立つ選択を誤らなかった人でもあります。ここでいう人生の成功とは経済的豊かさのみを意味しているのではありません。成功とは理想を掲げ、それを実現するために一つ一つクリアしてゆくことです。
 その第二は環境を自ら作り出すためには理想を掲げ、その理想に一歩、一歩近づける努力をすることです。周りに気配りして調和を意識しすぎると有子が述べているようにかえってうまくゆかなくなるのです。周りから影響されるのではなく、周りに影響を与えるくらいの気概を持つことも必要でしょう。それは王のような権力者だけでなく理想を掲げてひたすら追求し続けている人には誰でもなしえることです。

生涯を共にする心友を得ることの大切さ
 親と上司は選べない。友人は選ぶことができると言われます。とりわけ、何でも打ち明けられる心の友を持つことが人生の成功の大きな部分を占めています。論語の学而編の第一に孔子は「朋有り遠方より来たる、また楽しからずや」と述べています。友人との交流や語らいの中に自分の理想を実現することや生きることの迷いを払しょくするヒントを得ることができるのです。親兄弟に相談できないことでも相談しあえる而も切磋琢磨しあえる友人に巡り合えるかどうかで人生の成功が決まると言っても言い過ぎではないでしょう。(了)


論語に学ぶ人事の心得第十回 「仕事を引き継ぐ際の心得:事業の後継や引き継ぐ際には前任者の思いや行動を尊重する」

 今回の教えは親孝行の話です。孝行は孔子の思想の根幹をなす一つですが現代ビジネス風に後継者や後任者の心得として捉えてみました。
 事業の継承は会社の盛衰を握っている重要課題の一つです。どの企業にとっても後継者の育成が最重要な経営課題の一つであることには間違いありません。また、どの企業や組織でもいずれ必ず訪れるのが継承問題です。
 そして、事業の継承とまでいかなくても定期的に行われる人事異動によって事業や業務の引継ぎがあります。後継者や後任者には前の人の仕事のやり方の粗(あら)がよく見えます。そして、そのあとの行動が問われます。すぐにその見えた粗を改善と称して変えるのか、しばらくじっくりと観察して時機を待つのかです。ビジネスには正解がありませんがどう考えるべきでしょうか?
 論語の教えを参考にしながら考察してみたいと思います。

 学而1-11「子曰く、父在(いま)さば其の志を觀(み)、父沒(みまか)らば其の行(おこない)を觀(み)る。三年父の道(みち)於(を)改(あらた)むる無(な)からば、孝と謂(い)う可(べ)し。」

 「父在(いま)さば」とは、父親が存命中にはということ。其の志を觀(み)とは父親が何を目標に生きているのかよく観察する。父沒(みまか)らばとは父親が亡くなればといこと。其の行(おこない)を觀(み)るとは父親の生前の行いを思い起こすこと。三年父の道(みち於(を)改(あらた)むる無(な)からば)とは服喪中の三年間父のやり方をそのまま受け継ぐこと。孝と謂(い)う可(べ)しとはその子供は孝行ものである。

 論語の教え11:「仕事を引き継ぐ際の心得:前任者の目標や思いをよく観察し、その仕事を引き継いだ際にはやり方を焦って変えようとしてはならない」

 事業や業務を引き継いだ際には、最低一年間は観察し真因をつかめ。
 引き継いだ直後は前述したように前任者の粗(あら)が目についてとても気になります。そのこと自体は決して悪いわけではありません。新鮮な目で現実を見つめている証拠だからです。
 しかしながら、ここで焦って事態を変えようとしないことが大切です。
 何であれ物事には表層的(現象的)問題と深層的(本質的)問題があります。表面的問題に対症療法的に対応していたのでは何回も同じ問題が噴出します。いわゆる「もぐらたたき現象」が生じてしまいます。
 そこで、一定の期間現象的問題を収集し、原因分析をするのです。原因にも同じように表層的原因と本質的原因(真因)があります。表層問題ごとに表層原因がありますが本質的原因は絞り込むことが可能です。
 例えば、表層問題が三桁あったとしても本質的原因は数個に絞り込めます。そして、本質的問題の解決策をち密に計画して対処すれば所期の目的が達成できます。

 引き継がれる人と引き継ぐ人の両者に責任がある
 孝行の話に戻ります。孔子の教えでは孝行とは孝行する子供に孝行強いることではありません。親も子供から孝行されるほど徳のある生き方をしなければならないとの教えです。
ともすれば、親か子かのどちらかの問題ととらえがちですが親にも子にも徳を積む責任があるのです。
 同じように現代のビジネス社会においても事業を継承される人と継承する人との関係は共同責任です。そのどちらかが一方的に悪いのではありません。ところが自責でなく他責の気持ちが問題をこじらせることがしばしば起こります。引き継いだ人は「前任者がもっと計画的に人材育成に取り組んでくれていればわが社はさらに発展できたのにといい、引継ぎされた人はもっと有能だと思って後継者にしたのに期待外れだったといいます。
 ことの本質的原因を把握して解決行動を起こしていればこのような他責の話はないはずです。


論語に学ぶ人事の心得第九回 「常に見聞を広め、人格の陶冶に励んでいれば敢えて、求めなくても周りから頼りにされ、必要な情報が入ってくる」

 子貢は孔子門下の逸材です。孔門10哲の一人で、姓は端木、名は賜と言いました。衛国(現在の河北省南西部から河南省北部にわたる地域)出身です。大秀才であり、弁論にも秀でていました。孔子より31歳年少。春秋時代末期から戦国時代にかけて、外交官、内政官、大商人として活躍しました。子禽(しきん)は子貢の弟子です。姓は陳、名は亢(こう)と言いました。孔子より子貢を尊敬していたとも伝えられています。
 本項はその信頼する師弟関係の対話です。

 学而1-10「子禽(しきん)、子貢(しこう)に問ふて曰く、夫子(ふうし)のこの邦(くに)に至るや、必ず其の政(まつりごと)を聞く。之(これ)を求むるや、抑ち(すなわち)之を与えたるか。子貢曰く、夫子は溫(おん)・良(りょう)・恭(きょう)・儉(けん)讓(じょう)、以て之を得たり。夫子の之を求むるや、其れ諸人の之を求めたるには異ならんや。」
 子禽は師である子貢に質問した。孔子先生はある国を訪ねると必ず政(政治)をその国から相談された。これは先生が求めたのか先方から持ち掛けられたのかどちらであろうか。子貢はその資金の質問に答えて以下のように説明した。先生は温(おだやかさ)、良(素直さ)恭(うやうやしさ)、儉(つつましやか)、讓(ひかえめ)な人柄であるので自然とそのようななりいきになった。先生から求められたとしても他の人とは異なっていた。

 論語の教え10:「常に見聞を広め、人格の陶冶に励んでいれば敢えて、求めなくても周りから頼りにされ、必要な情報が入ってくる」

 おおよそ、人は企業経営や公共経営にかかわらずどんな組織に所属していても地位や力を求めて齷齪(あくせく)します。そこには、古来から悲喜こもごものドラマが繰り広げられてきました。

 本能というエンジンと理性というハンドル
 なぜ、人はここまでして権力や地位に固執するのでしょうか?
 それにはすべての人が生まれながらに持っている本能が地位を獲得する行動へと駆り立てるのだと思います。人は誰でも自己向上意欲が備わっていて自分の思い描いた目標を実現するために一生懸命になります。そのこと自体は決して悪いことではありません。
 一方、人間には理性が備わっています。理性が情念で駆り立てられた本能をコントロールしています。車に例えると本能がエンジンだとするなら理性はハンドルになるでしょうか。目的地に安全に効率よく到達するには両方が機能してこそ実現できます。

 地位は求めるものではなく迎えられるものである
 今回の教えは人間には誰でも獲得本能ともいうべき上方指向が備わっていますが、権力者に媚びて本能のままに地位を得ようとするのではなく、孔子のように常に人格を陶冶していれば、それを求めなくても先方から近づいてきて頼りにしてくれるのです。
 また、このような人間関係がいろんなところに構築できれば、おのずと斬新な情報が入ってきます。孔子は国内外を旅し見聞を広めました。それは生きた学問そのものでした。民の現実の姿を実地検分していますので為政者は興味をもって孔子との情報交換を望んだのだと容易に想像できます。しかも、媚びへつらうことなく真実を述べますから迫力満点です。
 名君ほど孔子を重用したのもうなずける話です。(了)


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