論語に学ぶ人事の心得第54回 「尊崇する周公旦が、先人の知恵に学び、礼法を作り上げた、それに従わない手はない」

周公旦像 出典:ウイキペディア

 本項は孔子が周(しゅう)国の文化を称(たた)える内容となっています。二代とは周王朝に先行する夏(か)・殷(いん)王朝のことです。夏(か)王朝は史書に記された中国最古の王朝です。
 史書には、初代の禹(ゆ)から末代の桀(けつ)まで14世17代471年間続き、殷(いん)の湯(ゆ)王に滅ぼされたと記録されています。 
 また、殷(いん)王朝は、紀元前17世紀 周の反乱により滅亡します。
 殷(いん)王朝は考古学的に実在が確認されている中国最古の王朝です。紀元前11世紀に帝辛(紂王)の代に周国(しゅうこく)によって滅ぼされました。その周王朝の建国と礎(いしづえ)を築くのに多大の貢献をしたのが武王の弟であった周公旦(しゅうこんたん)です。
 周公旦(しゅうこんたん)は礼学の基礎を形作った人物とされ、周代の儀式・儀礼について書かれた『周礼』、『儀礼』を著したと言われています。周公旦(しゅうこんたん)の時代から時が流れること約500年。春秋時代に儒教を開いた孔子は魯の出身であり、文武両道の周公旦(しゅうこうたん)を理想の聖人と崇(あが)め、常に周公旦(しゅうこうたん)を夢に見続けるほどに敬慕したと伝えられています。

 八佾篇第3―14「子曰く、周(しゅう)は二代に監(かんが)みて、郁郁乎(いくいくこ)て文(あやな)す哉(かな)。吾(われ)は周に從(したが)わん」

 師は言われた。「周(しゅう)は二代に監(かんが)みて」とは周王朝は夏・殷王朝と二代続いた王朝を参考にして作られた。「郁郁乎(いくいくこ)て文(あやな)す哉(かな)」とは馥郁(ふくいく)とかぐわしく麗しい文化を創った。「吾(われ)は周に從(したが)わん」とは私は周の文化に従いたい。


 論語の教え54: 「私たちは何を学ぶか大事だが、誰から学ぶかのほうがもっと大事だ」


孔子像 出典:Bing

◆人生の幸せは、大事な選択を間違わないことである
 人は、誰でも影響を受けた人がいます。そのことは、その人の人生に転機をもたらし、あるいは、その人の人生そのものを決めてしまうことにもなります。
 人生の節目、節目にいろいろな出会いがもたらされるのです。幼少期には、親から影響を受けることになりますが、年齢を重ねるとともに、影響を受ける人は多様になります。友人になり、学校の教師が加わります。さらに、社会に出ると上司が加わり、会社の経営者が加わります。
 ところで、人生は選択と出会いの連続であるとも言えると思います。とりわけ、重要なのは三つあります。第一は学校の選択であり、第二は職業の選択であり、第三は伴侶の選択です。この三つの選択を間違わなければ充実した人生を送れることはまず間違いがありません。
 ここで、良き選択をするための背景を考えてみましょう。そこには、必ず人生の目標と師がいるということです。人生の目標は素朴な実現したい願望のようなものからスタートする場合もあるでしょう。
 ある物理学者の話です。物理学に目覚めたのは、宇宙の果てはどうなっているのだという素朴な疑問から始まったというのです。彼は、子供心にそのことを父親に問いかけました。父親は満足のゆく回答はできませんでしたが、好奇心を刺激する話をしてくれました。ますます、気持ちを掻き立てられた少年は宇宙の果てを知りたくて物理学を志ます。自分の知りたいことを研究している大学を選択し、そこで生涯の恩師に出会います。そして、生涯かけて、物理学を研究して世界的な理論を打ち立てます。その師に出会わなければ、今日の自分は無かったと述懐しています。

◆信頼できない師からは学ぶものは少ない
 前述したように、自己の目標を実現するために生涯の探究テーマを決めたとしても師に恵まれなければ、その目標を達成することが難しいでしょう。古今東西、一時的ではなく継続して大きな成功を収めた人には必ず師が存在します。そして、師弟関係には強い信頼関係が存在しています。
 激しくも厳しい指導に耐え、やり遂げられるのも師との信頼関係が存在するからです。かつて、こんな場面を見たことがあります。その人は、今風に言うなら、強烈なパワーハラスメントではないかというほど上司から毎日激しく罵られ叱責されていました。どんなに無茶な要求に対しても、決して反発することはありませんでした。周りから見ると目を覆わんばかりの哀れな状況でしたが、約二年間、上司のしごきに耐え抜きました。
 周りを心配させるほどの光景が繰り広げられていました。とうとうノイローゼになり、何度も放心状態になりながらも会社を辞めずに我慢しました。
 後になってのその人の告白です。「最初は、反発心だけだった。辞表をたたきつけて、そのまま故郷(くに)に帰ろうと何度も思った」。
 ところが、不思議なことに、ある時点から、親でもないのに、よくぞ、ここまで自分を育ててくれようとする上司に感謝の気持ちが湧いてきた。そこから、どんなことがあろうともこの上司についてゆこうと決心した」と告白してくれました。その人は、若かりし頃の経験を活かし、その後も順調に昇進して、その会社のトップ層の役員にまで上り詰めました。
 人生で選ぶことができないのは上司と親です。同じ局面を迎えた時にどのように覚悟を決めるかで天と地の差が生じます。運も偶然でなく呼び込むことができるのです。

◆師から知識を学ぶのではなく思考を学ぶのだ
 前述した師弟関係は普遍的なものでないかもしれません。ただ一つ言えることは教える側も教えられる側も真剣だったことです。加えて、師弟が真摯に向き合いました。そして、いい結果を生み出しました。人を育てると簡単に言う人が合います。しかし、よほどの覚悟を決めないと人は簡単に育ちません。また、人づくりは単なる知識の伝承ではなく、人間改造のプロセスでもあります。
孔子自身も弟子の人づくりに生涯をかけました。その教えは「自ら考え自ら実行する人づくり」でした。
 そのためにどうしたのでしょうか?為政編のまとめで取り上げました。再度この項でも取り上げます。

第一は、「三者三様の教え」です。
 個人ごとに指導の仕方を変えます。人を見てその人に合った指導をしました。同じ質問をされても同じことを回答していません。その人の性格や能力に応じた指導方法を選択したのです。

第二は、「正解を導き出す思考過程」の教えです。
 質問されたときにすべての正解を教えず、考えさせる示唆(ヒント)を与える回答をしています。孟懿子(もういし)のような権力者には孝を問われて「外れないことだ」と相手に考えさせるとうに答えています。また、その子孟武伯には病にかかって親に心配かけないことが孝行だと回答しています。

第三は、「常に事実を検証すること」の教えです。
 学んだことは「鵜呑みにせず必ず調査分析して確認しなさい」そして、必ず自分の意見を添えて納得して習得しなさいというものでした。要するに、学ぶことは知識そのものを増やすことが目的でなく学んだ知識をよく思索して実践することが大切であるというものです。(了)


論語に学ぶ人事の心得第53回 「下心を持つ者には断固として妥協せず、厳然たる態度で対処する」

衛国君主 霊公出典:Bing

 本項は王孫賈(おうそんか)との対話です。
 孔子が魯国から全国遊説の旅の途中で衛国に立ち寄った時に行われたものだと思われます。王孫賈(おうそんか)は、孔子が衛国の重臣で、実力者である自分をさておいて奥、つまり君主霊公に媚(こ)びを売っているのではないかとの妬(ねた)み心を起こし、諺(ことわざ)を用いて遠回しに孔子を咎(とが)めているのです。孔子は、このことは百も承知で、「私はそのような小汚い真似はしません」ときっぱりと否定しています。
 王孫賈(おうそんか)はこれまでに登場してこなかった人物です。衛国の軍事を担当する重臣の一人でした。当時の衛国は霊公(れいこう)という29代目の君主が治めていました。霊公(れいこう)は、重臣で持っていると言われたほど取り巻きに守られていました。王孫賈(おうそんか)はそのうちの一人です。
 衛は中国の周代・春秋時代から戦国時代にかけて河南省の一部を支配した諸侯国です。紀元前209年、秦によって滅ぼされました。

 八佾篇第3―13「王孫賈(おうそんか)問いて曰く、其の奧に媚(こ)びんよりは、寧 (むし)ろ竈(そう)に媚び(こ)よとは、何の謂(いい)ぞや。子曰く、然(しか)らず、罪を天に獲(う)れば禱(いの)る所なき也」

 「王孫賈(おうそんか)問いて曰く、其の奧に媚びんよりは、寧 (むし)ろ竈(そう)に媚びよとは、何の謂(いい)ぞや」とは、王孫賈(おうそんか)が質問して言った。奥でかまどの神様のご機嫌を取るよりはかまどの前でご機嫌をとったほうが良いという諺がありますが、どういう意味ですか?師は答えた。「然(しか)らず、罪を天に獲(う)れば禱(いの)る所なき也」とは、それは違います。天に罪を犯せば、祈る対象が無くなります。

 論語の教え53: 「謀(はかりごと)をする人間には付け入るスキを与えてはいけない」

◆権力者の取り巻きには留意せよ
 権力者を取り巻く人物は、二癖も三癖もある人物であることは古今東西変わりません。それだけ権謀術数に長けた人物のみが就ける地位です。


孔子像:出典Bing

 現代社会においても、論語で教えていることとは真逆である、「うちのトップはどうしてあのような根性の曲がった人物を側近につけるのか」などと巷を賑わせる話題には事欠きません。一方で、癖のあるものほど仕事ができともいわれます。癖のあるものはある意味リスキーな存在でもあります。
 ところで、癖のある人と人間関係を築くにはどうすればいいのでしょうか。このような人と人間関係を築く必要はないと言ってしまえばことは簡単です。しかしながら、そうとばかり言えません。相手は重要な顧客であったり、取引先であったりする場合はうまく人間関係を維持しなければなりません。社内でも直属の上司であれば、必ず人間関係が生じます。避けることはできません。これらの人との付き合い上の要諦は自分の本心や尊厳を決して明かさないことです。そして、ぶしつけにも相手が心の中に土足で踏み込んできた時や不当な要求をしてきたときには、厳然とはねつける勇気を持つことだと思います。
 また、人間には、必ず強みと弱みがあります。相手の強みと弱みをじっくりと観察し、相手の出方によっては弱みを突くことを準備しておくことも大事です。

◆巧言令色な近づきには心を許すな
 ご承知のとおり、学而編1-3に「子曰く、巧言令色鮮(すくな)し仁」という短い項がありました。「巧妙な言葉で、取り繕った表情する人間は心を偽っているから、心して付き合え」というものです。孔子の言葉に深い意味を読み解くことができなくてもこの言葉の暗示するニュアンスを感じ取ることができます。この一項は、まさに、「至言」と言っていいでしょう。その反対に、「剛毅朴訥、仁者に近(ちか)し」とは口下手であっても真情にあふれる人は、仁者であると高い評価をしています。要するに人間を評価するのは外面的なものでなく内面の心のありようで評価することの大切さを説いているのです。
 因(ちな)みに、辞書によりますと、心情とは心の中にある思いや感情のことであり、本項で説いている真情とは嘘偽りのない心、まごころのことを言います。
 言葉巧みにすり寄ってくる者を我々はすぐに信じてしまいます。古くからある詐欺師や詐欺行為がいまだに消えてなくならないのはいかに人は騙されやすく、巧みな言葉に弱いかという証拠でしょう。

◆虎の威を借りる人間の本性を見抜く
 「虎の威を借る狐」とは、「権勢を持つ者に頼って、その権力を後ろ盾にして威張ること」です。出典は「戦国策・楚策』にあると言われています。
 その話の内容とは「虎が狐を食おうとしたときに、狐が「私は天帝から百獣の王に任命された。私を食べたら天帝の意にそむくことになるだろう。嘘だと思うなら、私について来い」と虎に言った。そこで虎が狐の後についていくと、行き合う獣たちはみな逃げ出していく。虎は獣たちが自分を恐れていたことに気づかず、狐を見て逃げ出したのだと思い込んだ」という話から来ています。
 それにしても虎に威を借りて威張り散らす小心者が多いことに驚かされます。
 以前に、このような光景を見たことがあります。同僚の一人が上司に決裁書をもって伺ったところ「今頃こんなものをもってきて遅いじゃないか」と決裁書を激しくたたき返しました。仕方がないから、決裁書をその上司の上司にもって決済を伺いました。事情を説明して決済を伺ったところ決済してくれました。その後、彼が直属上司に事後報告に伺ったところ、「ルール違反だろう」と怒られると覚悟していたにもかかわらず、にこにこしながら「実は私も賛成だったのだよ」と急に態度を豹変したのでした。その後、私を含め同僚はその上司を全く信用しませんでした。
(了)

注)1戦国策とはもともと『国策』『国事』『事語』『短長』『長書』『脩書』といった書物(竹簡)があったが、これを前漢の劉向(紀元前77年~紀元前6年)が33篇の一つの書にまとめ、『戦国策』と名付けた。(出典:ウイキペディア)


論語に学ぶ人事の心得第52回 「先祖を祭るには、そこに先祖がいるように、気持ちを込めて執り行うことが大切だ」

孔子像 出典:Bing

 多くの皆様はお解りのことと思いますが神を祭るとは先祖を敬い法事をとりおこなうことです。孔子が生きた時代には、まだ、中国に仏教が伝わっておりません。古代のしきたりに沿って先祖を敬う儀式が行われていたのです。因みに仏教では先祖を敬うことを年忌と言いますね。
 ところで、孔子は祭りを行う者の心得として礼に適うことを強く意識しておりました。
 本編八佾(はちいつ)で何回も取り上げられているように分を弁(わきま)えない祭祀の行為には誰であっても孔子は厳しく批判しています。それが魯国の三桓であった季孫氏に対しても同じです。 
また、祭祀が華美に走ることに対しても、孔子は何度も批判しています。祭祀を行うことは権勢を誇ることではないからです。誠心誠意、心を込めて先祖を敬うことが祭祀の目的であることを説いたのでした。
 この時代は社会的な規範らしいものは確立されていません。時の権力者の価値観が社会的規範として流布されました。つまり王様の考えが社会のルールになっていた時代です。そのような中にあって、孔子は儒教を打ち立て、「五倫五常」を人の生き方の規範として確立しました。歴史に「たら」はないのですが、孔子がこの世にいなかったら、中国のみならず世界の歴史はすっかり変わったものになったに違いありません。改めて孔子の偉大さに思いを馳せたいと思います。

 八佾篇第3―12「祭(まつ)ること在(いま)すが如(ごと)くす。神を祭ること神在(いま)すが如くせり。子曰く、吾れ祭りに與(あず)からざれば、祭りて祭らざるが如し」

 「祭(まつ)ること在(いま)すが如(ごと)くす」とは、師は先祖を祭る際には、先祖がそこにいるようにふるまわれた。「神を祭ること神在(いま)すが如くせり」とは、神様がそこにおられるようにふるまわれた。師は言われた。「吾れ祭りに與(あず)からざれば、祭りて祭らざるが如し」とは、私は先祖を祭る行事に参加できないときは、先祖に会わなかったとうな気がしてならない。

 論語の教え52: 「心のこもらない形式的な儀式をいかに盛大に行おうとも人々を惹きつけない」

◆法人の行事や儀式は何のためにやるのか
 どんな企業や組織でも創業もしくは設立記念の行事が行われます。また、周年記念行事もあります。これらは何のために行われるのでしょうか。
 私は二つの目的があると思います。その第一はこれまで支えてくれた顧客やパートナーへの感謝の気持ちを表すためだと思います。第二はお客様やパートナーに感謝の意を表しつつ、全社員でそれを共有し、次の発展に向けて全社員とともに決意を固める場であると思います。記念行事にひっかけて商売のネタに利用している企業を見たことがあります。このような企業は自己中心的で動機が不純と言わざるをえないでしょう。誰も共感しませんし協力をしないと思われます。
 法人であれ、個人であれ感謝の気持ちを忘れたら、そこから衰退がはじまります。日本を代表するある電機メーカーの創業者が存命中に創業60周年を迎えました。たった三人で始めた町工場が60年後には10万人を擁する大企業へと発展していました。集まった7000人の経営幹部を前にして感謝の言葉を述べました。そして、腰を90度に曲げ三回も最敬礼をしたのです。参会者から万雷の拍手が沸き起こりました。


地震災害 出典:Bing

◆リーダーの最大の責務はリスクを予知することである
 「災害は忘れたころにやってくる」といったのは物理学者であり文豪でもあった寺田寅彦の言葉で
す。企業経営では災害や事故を避けることはできません。寺田の言葉はどれだけ悲惨な災害に遭遇しても、人は忘れ去って、次の災害に会った時の備えを怠ってしまいます。それに対する警告だと思います。どんな組織でも災害や事故で犠牲になった人々を手厚く葬ります。記念碑を創り、多くの人々の心に深く刻まれるように儀式も行われます。それは災害や事故を風化させないためです。そして、二度と同じ犠牲を出さないために備えるるのです。
 以前にも取り上げたことのあるアメリカの著名な経営学者ピーター・F・ドラッカーは「リーダーの最大の責務はリスクを予知することである」と言っています。そして、「それはリスクを避けるためでなく、備えるためである」とも言っています。
 経営者は社会から人とモノとお金を預かり経営資産として運用を任されています。これらを守り切ることこそ経営者の責任であるというのです。ドラッカーは企業の目的は「顧客を創造することだ」と提唱して利益を上げるために血眼になっている世界中の経営者に目的をはき違えるなと覚醒させました。同じように社会から預かった経営資産を守ることが経営者の責任であると喝破したのも心に沁みる卓見の一つだと思います。

◆功労者を顕彰するする意味は?
 国家であれ、企業であれ多大な貢献をした人に感謝の気持ちを込めて栄誉を称えます。その意味するところは何でしょうか?
 歴史上、どの国においても神格化された軍人は何人も出ています。それは軍国主義を鼓舞するために行われました。それは必ずしも褒められたことではありません。
 本来は世界最高の権威を持っているノーベル賞に代表されるように人類の進歩に貢献した人々を顕彰すべきものです。国家の政策とはいえ、人を数多く殺した人を顕彰するよりは人の命を数多く救った人を顕彰することに異議ある人は誰もいないはずです。
 冒頭に述べたようにそれぞれの国には顕彰制度がありますが世界のすべての国で人を殺すことにより顕彰されることのない世界が訪れることを願わずにはいられません。(了)


論語に学ぶ人事の心得第51回 「微妙な問題に対しては、すべて本音で応えるのではなく、さらりと躱(かわ)す術(すべ)を持つ」

孔子像 出典:Bing

 本項は前項からの続きです。前項で述べた様に、孔子は魯の国の禘(てい)の大祭に疑念がありました。だから、魂を呼び込む灌(かん)の儀式が終わると後は参加したくないと言っているのです。
なぜ、孔子がこのような大祭に疑念を抱いたのか明確な理由が述べられていません。そのわけを究明することがこのブログの目的ではありませんので話を前に進めたいと思います。
 しかし、本項ではある人の質問に対してはあっさりと「知らない」と答えています。孔子は大抵のことに対してはその質問の意図を確かめるなどして、質問者の意向に沿った答えや示唆を与えています。常にまじめな対応をしてきました。この度のやり取りを見ていますと、そっけないのです。その裏にあるものは何だろうと思いたくなります。
 本項の質問に対しては、質問の意図も確認せず、質問に対して正面から答えていません。  
つまり、孔子らしくなく本音を明らかにしていないのです。孔子は正直に本当のことを言えば社会に与える影響が大きすぎると考えたかもしれません。

 八佾篇第3―11「或(ある)ひと禘(てい)の說(せつ)を問ふ。子曰(いわ)く、知らざる也(なり)。其の說(せつ)を知る者の天下(てんか)に於けるや、其(そ)れ諸(こ)れ斯(こ)に示(み)が如(ごと)きか」と。其の掌(たなごころ)を指(さ)す。」

 「或(ある)ひと禘(てい)の說(せつ)を問ふ」とはある人が孔子に禘(てい)つまり君主が先祖を祭る大祭の意味などについて説明を求めた。「子曰(いわ)く、知らざる也(なり))とは師は知りませんと答えた。「其の說(せつ)を知る者の天下(てんか)に於けるや、其(そ)れ諸(こ)れ斯(こ)に示(み)が如(ごと)きか」」とはその意味を分かる人は天下のことを何もかも手のひらにまとめてはっきり見ることができるでしょう。「其の掌(たなごころ)を指(さ)す」とは自分の手のひらを指さした。


 論語の教え51: 「この世の中、すべて正論が通用するとは限らない」

 ◆信頼関係を築くには本音が不可欠、そうでなければ建前を押し通せ。
 「信頼関係」とはお互いに信じ、頼りあえる間柄のことをいいます。それには何事も隠さず本当のことが言い合える間柄でもあります。また、お互いに相手から欠点や弱みを指摘されてもいちいち腹を立てないことです。だから、本当のことがお互い言えます。言い換えれば、ほんとうのことを言い合える仲が本音を言い合える関係と置き換えられます。


出典:Bing

 また、信頼関係は、どんな人間関係でも築くことができます。基本は家族関係になりますが、会社の同僚や上司の信頼関係を育むことができます。私はむしろ会社の中での信頼関係を築くことが家族関係以上に大切なことだと思っています。会社では、血族的なつながりではありませんが、目的や目標を共有する共同体に所属するからです。
 良好な信頼関係があれば、どんな良いことがあるのでしょうか。たとえば、職場の同僚や上司と信頼関係が築けていれば、士気の高い組織や職場が築けるでしょうし、お互いに励まし合うことで、きっといい成果があげられると思います。
 本音が言い合える関係でなければ信頼関係があるとは言えません。ある会社では本音で言い合える関係を創ろうと上司からの呼びかけがあり、それを信じた社員が本音で上司に意見を言ったところ左遷されてしまったという話を聞いたことがあります。本音で話そうといったことが実は建前であったという笑うに笑えない笑い話です。信頼関係を築くには本音が大切だということを無防備に信じると取り返しのつかない事態を呼び込みますので状況をしっかりと見極めましょう・

 ◆頭も身のこなしも柔らかくあれ。
 人間はリラックスすればするほど身も心も柔らかくなります。逆に、緊張すればするほど固くなります。例えば、リラックスして水に体を委ねると人間の身体は浮きますので伸び伸びと水泳を楽しむことができます。一方、泳げない人は、緊張して体が硬くなりますので同じように水に浮こうとしても、水に飲み込まれてしまいます。怖くなり身体をバタバタさせるとさらに深みに引きずり込まれてしまいます。
 水の中ばかりではありません。あなたは、ある重要な会議で改善策を提案することになりました。会議メンバーは全員、会社の経営陣です。いわゆる強面(こわもて)する面々が睨(にら)んでいる前でプレゼンすることになりました。想像するだけで緊張が増してきます。プレゼンが始まりました。心臓の鼓動がパクパクと音を立てているように感じられます。緊張が頂点に達しました。声もうわずっています。準備した時と全く異なる状況に追い込まれてしまいます。実際には準備した内容の半分も出しきれません。こんな経験をしたのは私だけではないはずです。事程左様に人は緊張すると身体が硬くなります。身体だけではありません。頭も回転が悪くなります。ひどい場合は思考がストップするいわゆるフリーズ状態になってしまうこともあります。リラックスするにはどうすべきでしょうか。何回も何回も練習を重ね自信のような気持ちがわいてくる時があります。そうなればしめたものです。心にリラックス状態が芽生えると身体も頭も柔らかくなります。

 ◆嘘も方便、時には許されることもある。
 嘘をつくことは罪悪ですが、目的を果たすためには嘘が必要な場合もあるということです。この世の中すべて真実だけが通用するとは限りません。例えば、余命いくばくもない患者に対して医師は「あなたの命はあと一か月しか持ちません」とは言いません。当然ながら、家族には本当のことを告げるでしょう。患者本人には「大丈夫ですよ、頑張ってくださいね」と激励します。この状況下で、医師に「嘘を言ってはいけない」とはだれも言いません。
 私たちの身の回りには「許されるうそ」と「許されない嘘」が飛び回っているように思います。
許される嘘はある意味人間関係の潤滑油のような役割を果たしていることもあります。夫婦間でも親子間でもどちらからでもうそが日常的に発せられています。会社の中の人間関係でもプライベートな人間関係で生じる「許されるうそ」が氾濫していると思います。
 採用時の心理学テストに「私は今までに嘘をついたことがない」という質問があります。この質問に対して皆さんならどう答えますか。「はい」か「いいえ」で回答します。「はい」と答えた人はうそを言っていると思われます。「いいえ」と答えた人が真実を述べていることになります。これは「ライスコア」といって虚偽癖があるかどうかを見抜くための尺度になります。大抵の心理テストにはライスコアが10項目挿入されています。ライスコアの高い人は極力採用しないほうがいいことになっています。

(了)


論語に学ぶ人事の心得第50回 「たとえ君主の先祖を祭る儀式でも、礼を失した儀式は下手な芝居を見るようで見る気にならない」

孔子像 出典:Bing

 本項は非常に短い文章です。短いにも関(かか)わらず、孔子は頑(かたく)な的ともいうべき強い態度で禘(てい)の大祭に参加することを拒否しています。なぜ、そこまでのこだわりがあるのか、その理由が全く書かれていません。これまで孔子がいろいろな場面で示してきた対応から読み解く必要がありそうです。
 孔子は誰であっても礼を失する行為には厳しく糾弾(きゅうだん)しています。この編のタイトルにも なった八佾(はちいつ)も君主にしか許されていない八佾(はちいつ)の舞を三桓の筆頭であった季孫氏が自邸で舞をとり行なったことにも大きな憤りと落胆の気持ちを示しています。要するに分を弁(わきま)えよということです。
 「あなたは重い立場の貴族ですがあくまでも臣下です」というわけです。
 本項には、記述はないのですが、これまでに、禘(てい)の大祭の時に孔子にとっては我慢のできない場面に遭遇したのだと思われます。
 禘(てい)の大祭とは君主が先祖を祭る魂を呼び込むための儀式です。その儀式では、最も重要な部分は、灌(かん)といって酒を、わらに濯(そそ)ぎかけ、先祖の魂を招く行事です。藁(わら)が酒を吸い込む様子が、魂が酒を享受したように見えます。
 それが済んでから後は、見る気がしないと孔子は言っているのです。それで、も明確な理由はみえません。一説によると先祖の位牌を祭る順序に間違いがあったとのことですがこのような重要な儀式に先祖の位牌を間違って並べるでしょうか。その背景には、込み入った事情がありそうです。
 
 八佾篇第3―10「子曰(いわ)く、禘(てい)既(すで)に灌(かん)して自(よ)り往(のち)は、吾(われ)之(こ)れを觀(み)ることを欲せず」

 師は言われた。「禘(てい)既(すで)に灌(かん)して自(よ)り往(のち)は」とは「禘(てい)の大祭でかぐわしい酒を注ぐ儀式から以降は、「吾(われ)之(こ)れを觀(み)ることを欲せず」とは私は見る気がしない

 論語の教え50: 「先人を敬うのは単に儀式をとり行うことでなく、心から敬うことがより大切だ」


出典:Bing

◆すべからく手段と目的をはき違えるな
 かつて、若かりし頃に企業の目的は「顧客の創造だ」と書かれた本を読んで深く感銘を受けたことがあります。ドラッカーというアメリカの著名な経営学者が著した「現代の経営」という名前の本でした。  
 それまでは企業の目的は利益を追求することだと上司や先輩から教わってきましたのでにわかに信じがたい思いもしました。その一方で、目からうろこが落ちた思いもしました。
 その企業では社会に奉仕するのがわが社の使命であると宣言していました。これはあくまでも建前であり、社内での集団規範はムキムキの利益追求主義の会社でした。
 企業の目的は「顧客の創造である」というのと「利益の追求である」というのでは取るべき手段が大きく異なります。もし、利益を追求することが目的だとした場合には利益を出すためにあらゆる方法を用いて経費を削減します。社員を削減して利益を出そうとするかもしれません。また、将来の成長やそれこそ収益を生み出すかもしれない投資をしなくなるかもしれません。このような経営がまかり通ったとしたらそれこそ目的と手段をはき違えていると言えるでしょう。
 目的とは経営者が最終的に実現しなければならないことであり、手段とはその目的を実現するためのとるべき行動のことです。初めから経費削減ばかり取り組んで利益を出そうとすることは手段と目的をはき違えていると言えるでしょう。本項の禘(てい)の大祭でいえば、とにかく儀式を行うことが目的になって、心のこもらない儀式を見ても何の意味があるのでしょうか。それこそ下手な芝居を見るようなものです。
 先祖を敬うことが軽視されたとしたら誰だって、孔子の気持ちのように見たくもなくなるでしょう。

◆何事も「心」がなく形骸化することを排除せよ
 何事も当初は目的に適った形で行われます。しかし、残念ながら時の流れとともに慣例化してしまいます。いわゆるマンネリ化です。ただ、だれも何も考えなく、何となくとり行われてしまうのです。
 創業者が命を懸けて作り上げた事業や、それにまつわる社是社訓も創業者が現役で活躍中は厳然と生き続けます。しかし、現役を退き、あるいは鬼籍に入ったりしますとだんだんと創業時代の緊張感が薄れてきます。朝礼や会議で唱和していた社是・社訓も念仏を唱えているのと同じような状況になります。
 社員は毎朝、唱和しているのですが、内容が全く分からないままに唱えているだけなのです。経営者も大事なことを伝えようとしません。
 さらに悪いことにこのような企業では、毎日唱えていることと逆の行動が習慣化してしまっていることがあります。こうなってしまったら、企業は没落の一途をたどります。社員は正しいこと(あるいは正しいと思っている)をしていのになぜ業績や処遇が悪化する一方なのだろうと思っているうちに解雇が始まるのです。どんなに優れた制度や仕組みでも心のこもった運用ができなければ企業をあらぬ方向へと導いてしまいます。最終的にはやはり「人」です。人事が公正に行われなければ必ず企業は傾きます。これまでに、歴史が「いや」というほどこのことを見せつけています。悲しいことに、未だにその歴史は繰り返されています。(了)


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