論語に学ぶ人事の心得第50回 「たとえ君主の先祖を祭る儀式でも、礼を失した儀式は下手な芝居を見るようで見る気にならない」

孔子像 出典:Bing

 本項は非常に短い文章です。短いにも関(かか)わらず、孔子は頑(かたく)な的ともいうべき強い態度で禘(てい)の大祭に参加することを拒否しています。なぜ、そこまでのこだわりがあるのか、その理由が全く書かれていません。これまで孔子がいろいろな場面で示してきた対応から読み解く必要がありそうです。
 孔子は誰であっても礼を失する行為には厳しく糾弾(きゅうだん)しています。この編のタイトルにも なった八佾(はちいつ)も君主にしか許されていない八佾(はちいつ)の舞を三桓の筆頭であった季孫氏が自邸で舞をとり行なったことにも大きな憤りと落胆の気持ちを示しています。要するに分を弁(わきま)えよということです。
 「あなたは重い立場の貴族ですがあくまでも臣下です」というわけです。
 本項には、記述はないのですが、これまでに、禘(てい)の大祭の時に孔子にとっては我慢のできない場面に遭遇したのだと思われます。
 禘(てい)の大祭とは君主が先祖を祭る魂を呼び込むための儀式です。その儀式では、最も重要な部分は、灌(かん)といって酒を、わらに濯(そそ)ぎかけ、先祖の魂を招く行事です。藁(わら)が酒を吸い込む様子が、魂が酒を享受したように見えます。
 それが済んでから後は、見る気がしないと孔子は言っているのです。それで、も明確な理由はみえません。一説によると先祖の位牌を祭る順序に間違いがあったとのことですがこのような重要な儀式に先祖の位牌を間違って並べるでしょうか。その背景には、込み入った事情がありそうです。
 
 八佾篇第3―10「子曰(いわ)く、禘(てい)既(すで)に灌(かん)して自(よ)り往(のち)は、吾(われ)之(こ)れを觀(み)ることを欲せず」

 師は言われた。「禘(てい)既(すで)に灌(かん)して自(よ)り往(のち)は」とは「禘(てい)の大祭でかぐわしい酒を注ぐ儀式から以降は、「吾(われ)之(こ)れを觀(み)ることを欲せず」とは私は見る気がしない

 論語の教え50: 「先人を敬うのは単に儀式をとり行うことでなく、心から敬うことがより大切だ」


出典:Bing

◆すべからく手段と目的をはき違えるな
 かつて、若かりし頃に企業の目的は「顧客の創造だ」と書かれた本を読んで深く感銘を受けたことがあります。ドラッカーというアメリカの著名な経営学者が著した「現代の経営」という名前の本でした。  
 それまでは企業の目的は利益を追求することだと上司や先輩から教わってきましたのでにわかに信じがたい思いもしました。その一方で、目からうろこが落ちた思いもしました。
 その企業では社会に奉仕するのがわが社の使命であると宣言していました。これはあくまでも建前であり、社内での集団規範はムキムキの利益追求主義の会社でした。
 企業の目的は「顧客の創造である」というのと「利益の追求である」というのでは取るべき手段が大きく異なります。もし、利益を追求することが目的だとした場合には利益を出すためにあらゆる方法を用いて経費を削減します。社員を削減して利益を出そうとするかもしれません。また、将来の成長やそれこそ収益を生み出すかもしれない投資をしなくなるかもしれません。このような経営がまかり通ったとしたらそれこそ目的と手段をはき違えていると言えるでしょう。
 目的とは経営者が最終的に実現しなければならないことであり、手段とはその目的を実現するためのとるべき行動のことです。初めから経費削減ばかり取り組んで利益を出そうとすることは手段と目的をはき違えていると言えるでしょう。本項の禘(てい)の大祭でいえば、とにかく儀式を行うことが目的になって、心のこもらない儀式を見ても何の意味があるのでしょうか。それこそ下手な芝居を見るようなものです。
 先祖を敬うことが軽視されたとしたら誰だって、孔子の気持ちのように見たくもなくなるでしょう。

◆何事も「心」がなく形骸化することを排除せよ
 何事も当初は目的に適った形で行われます。しかし、残念ながら時の流れとともに慣例化してしまいます。いわゆるマンネリ化です。ただ、だれも何も考えなく、何となくとり行われてしまうのです。
 創業者が命を懸けて作り上げた事業や、それにまつわる社是社訓も創業者が現役で活躍中は厳然と生き続けます。しかし、現役を退き、あるいは鬼籍に入ったりしますとだんだんと創業時代の緊張感が薄れてきます。朝礼や会議で唱和していた社是・社訓も念仏を唱えているのと同じような状況になります。
 社員は毎朝、唱和しているのですが、内容が全く分からないままに唱えているだけなのです。経営者も大事なことを伝えようとしません。
 さらに悪いことにこのような企業では、毎日唱えていることと逆の行動が習慣化してしまっていることがあります。こうなってしまったら、企業は没落の一途をたどります。社員は正しいこと(あるいは正しいと思っている)をしていのになぜ業績や処遇が悪化する一方なのだろうと思っているうちに解雇が始まるのです。どんなに優れた制度や仕組みでも心のこもった運用ができなければ企業をあらぬ方向へと導いてしまいます。最終的にはやはり「人」です。人事が公正に行われなければ必ず企業は傾きます。これまでに、歴史が「いや」というほどこのことを見せつけています。悲しいことに、未だにその歴史は繰り返されています。(了)


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