論語に学ぶ人事の心得第36回 「統治者として民衆を従わせるにはどうすべきか?」

季康子(きこうし)像 出典:Bing

 前回は魯国の君主、哀公(あいこう)との対話でした。今回は実質統治者である権力者との対話です。
 季康子(きこうし)は魯国の三大貴族「三桓」、季孫氏の一族です。
 三桓の筆頭、季氏の当主でもあります。魯国正卿BC492年に父・季桓子(季孫斯)の跡を継いで当主となりました。
 魯国の重鎮がこぞって政治の根幹である民の統治について孔子に相談を持ち掛けています。季氏と孔子は親である季桓子(季孫斯)の代から因縁浅からぬ関係でありました。
 孔子を師として仰ぐのでもなく時として近づけたり、遠ざけたりしました。権力者としての身勝手で孔子の見識を利用したきらいが透けて見えます。
 孔子はこれらの一連の季氏の態度に利用されたふりをして季孫氏の一族の権力者としての行動を見抜いていました。本項はまさにその場面を如実に物語っています。民を統治する本質を季康子(きこうし)に伝えながら為政者としての心構えを教えています。まるであなたが民を従わせる能力がないから民が従わないのですと言わんばかりです。

 為政2-20「季康子(きこうし)問ふ、民をして敬忠(けいちゅう)にして以(もっ)て勸(すすま)しめんには、之を如何せん。子曰く、之に臨(のぞ)むに莊(そう)を以(持っ)てすれば則(すなわ)ち敬、孝慈ならば則(すなわ)ち忠、善を擧げて不能を敎れば則ち勸(すす)む。」

 季康子(きこうし)が孔子に尋ねた。「民をして敬忠(けいちゅう)にして以(もっ)て勸(すすま)しめんには、之を如何せん」とは民衆が真心を込めて務め、真心を込めて尽くすようにさせるにはどうしたらといでしょうか?
 孔子は答えた。「之に臨(のぞ)むに莊(そう)を以(持っ)てすれば則(すなわ)ち敬、孝慈ならば則(すなわ)ち忠、善を擧げて不能を敎れば則ち勸(すす)む」とは民衆に対してきちんと公正な態度で臨まれたならば、民は真心を込めて務めるようになり、老人をいたわり子供を愛護すれば、真心を尽くすようになり、有能なる者を登用し能力のないものを親切に指導したなら、自発的に励むようになります。

 論語の教え37: 「経営幹部(実質権限者)は自己の一挙手一投足が組織風土を形成することを自覚せよ」

 ◆組織風土とは何か?
 人は二人以上いれば必ず風土が形成されます。家には家風があります。会社には企業風土があります。地域や国にも風土があります。風土というと空気みたいなもので、とても分かりにくいと思われがちです。風土というのはその組織または集団の構成員で共有されている価値観です。言葉、文化、風俗、習慣、行動規範を含みます。要するにその所属する組織の価値観を共有できなければ同じ組織や集団に所属することはできません。いわゆる組織の「掟」(おきて)です。掟(おきて)とは公式にも非公式にも組織やグループで守らなければならないとされるそれぞれの組織や集団・グループ内の規範の総称を表します。
 以前にも触れたことがありますが人間は所属する環境に影響されながら生きる動物です。一人で自由に生きているという人がいるかもしれませんえがそれは錯覚です。その人の価値観は必ず環境により形成されています。


組織風土概念図


 ◆組織風土は誰が作るのか?
 それでは、組織風土は誰が作るのでしょうか?誰だと思いますか?
 組織風土の形成者はその組織の最高権威者です。家風を決めるのは必ずしも父親であるとは限りません。母親である場合もあります。親が高齢化すれば子供に移る場合もあります。企業の場合はどうでしょうか?企業全体の組織風土はその企業の実権者が形成します。一概に社長とは言えません。会長とも言えません。実質的に最高権限を行使する人が組織風土の形成者です。国でも同じ事です。古代中国春秋時代の魯国の場合には長らく三桓の筆頭、季氏の当主が風土形成者でした。君主である定公(ていこう)や哀公(あいこう)が握っていたわけではありません。孔子はそのことをよく知っていました。だから哀公(あいこう)と季康子(きこうし)は本項にあるように異なったことを教えています。
 要するに民に求める前に風土形成者であるあなたが行動を律してゆけば自然と民がそれに従うのですと厳しく指摘しているのです。それにしても孔子の慧眼には驚くほかはありません。

 ◆良き組織風土を維持するには?
 しかしながら、権力者だけで良き風土を維持できません。君主が仁者であってもそれは必要条件であっても十分条件とはなりません。

 孔子が本項で指摘しているように、良き風土を形成し維持するためには、能力のあるものを抜擢して配置し善政を行うことが非常に重要です。孔子はこの点についても君主である哀公(あいこう)にも言っていますし、本項の季康子にも伝えています。
 現代の経営であれば公正な登用基準で中堅幹部を抜擢することです。次が最も大切なことですが人材育成です。このことも孔子が季康子に説いています。上位からいくら立派な方針が出されても実際に行動する一般人が理解できなければ政策が実現できないからです。

(了)


論語に学ぶ人事の心得第35回 「どうすれば民(たみ)は君主を尊敬し、従うようになるのだろうか?」

 本項は魯国の君主哀公(あいこう)との対話です。君主と言っても孔子とは孫ほどの年齢の差がありました。孔子が十三年余りの諸国遊説の旅を終え、68歳で魯国に戻った時、哀公(あいこう)から相談があったものと思われます。このとき、魯国では農民の反乱が多発していました。
 ここで、君主哀公(あいこう)についてもう少し述べておきたいと思います。
 「孔子の祖国魯国の第26代君主の定公(ていこう)の子として生まれます。その後、BC494年に父の定公(ていこう)に代わり魯国第27代君主に即位しました。
 即位中のBC487年に隣国の呉に攻められましたが奮戦し、和解しました。その後、斉に攻められ敗北しました。    
 BC485年には呉と同じく斉へ攻め込み大勝しました。BC483年に権力を誇っていた簡公(かんこう)討伐に孔子が進軍を勧めますが実行しませんでした。  


哀公(あいこう)像

 その3年後のBC481年、斉の簡公(かんこう)が宰相の田恒(でんこう)に弑殺(しいさつ)されたのを受けて、孔子が再び斉への進軍を3度も勧めましたが、哀公(あいこう)はこれを聞き入れませんでした。BC468年に、魯の第15代君主の桓公(かんこう)の3兄弟を祖とし当時絶対的権力を握っていた三桓(さんかん)氏の武力討伐を試みるも三桓(さんかん)氏の軍事力に屈し、衛(えい)や鄒(すう)を転々とした後に越(えつ)へ国外追放され、BC467年にその地で没しました。(出典:ウイキペディア)

 為政2-19「哀公(あいこう)問いて曰く、何を爲(な)さば則(すなわ)ち民(たみ)服せん。孔子對(こた)えて曰く、直(なおき)きを擧げて諸(これ)を枉(まが)れるに錯(お)はさば、則ち民(たみ)服す。枉(まが)れるを擧(あ)げて諸(これ)を直(なお)きに錯(お)けば、則(すなわ)ち民(たみ)服せず」


孔子の言葉 出典:Bing

 論語の教え36: 「人びとが会社を信頼し服務するのは公正な人事を進めることに勝る方策はない」

 ◎公正な人事とは?
 まず、公正とは何かということです。公正とは個人の能力及び会社への貢献度以外の要素で不当に差別されないことです。
 公正な人事には管理される側と管理する側の論理があります。 
 大切なことは「管理される人」が公正と思わない限り真の公正な人事が行われているとは言えないことです。例えば、「管理する」経営者サイドが、いくら「わが社は公正な人事を進めている」と言っても経営者や管理職の大半が総経理の血縁者で固められていたとしたら、社員は元より部外者であっても公正な人事が行われているとは判断しません。
 公正な人事には以下の三つの原則があります。第一は「機会均等の原則」、第二は「能力評価の原則」、第三は「成果配分の原則」です。

 ◆「機会均等の原則」
 機会均等には社員一人ひとりの能力開発と登用の機会均等があります。能力開発には社内外の研修参加やキャリア開発のための職能や職務の選択について、誰に対しても門戸が開放されていることが大切です。特定の人だけに門戸が開かれていては大多数の社員がやる気をなくします。社員の昇進や昇格についても同様です。

 ◆「能力評価の原則」
 社員の能力でなく、上司の好き嫌いで恣意的に評価されることは社員が最も嫌うことです。人は誰でも努力した結果、貢献度に応じて格差がつく事を嫌がりません。最も嫌うのは公正に評価されないことです。何らかの理由で特定の人が依怙贔屓(えこひいき)されることによって人事を不透明にしてしまいます。
 大切なことは人事評価に客観性があることです。人が人を評価するのですから、評価には勢い主観的要素が入り込みます。評価から主観性をどう排除するかが人事評価の最重要ポイントといっても良いでしょう。
 次の大切なポイントは納得性です。評価者と被評価者の両者が納得するものである必要があります。評価される側の貢献度を日常の業務活動から注意深く観察し、記録にとどめておかなければ、評価は主観的になり、納得性が得られないものになってしまいます。

 ◆「成果配分の原則」
 機会均等と能力評価が公正に行われれば最後に成果配分が公正に行われているかどうかが問われます。
 成果配分には月例給与と期末賞与があります。月例給与は生計給としての基本給と能力給とで構成されます。月例給与は下方硬直性が高いので業績をあげたからと言って大判振る舞いをしていると業績が悪化しても給与を下げられませんので賃金体系がいびつになります。業績を上げた社員には賞与で報いるようにすべきです。賞与は業績連動の成果配分なので上下することは当たり前です。従って、評価制度も業績評価と能力評価の二本立てが望ましいのです。

 ◎川の水は下流から濁らない
 組織で起きる現象を川の流れに例えて、公正な人事が行われなかったために上位職位から不正や悪しき慣行が組織全体にひろがることを表現しています。
 本項で孔子が哀公(あいこう)にアドバイスしたのはまさにこのことだったと思われます。「正しい者を抜擢して不正なものを統治すれば多くの人々は従う。不正なものを抜擢して正しいものを統治させれば多くの人々は従わない」と答えたのには意味がありました。
 古今東西、人事の原則は仁者を抜擢して人々を統治させることが国家の安寧を約束することです。ところが哀公(あいこう)は孔子のアドバイスを聞かないばかりか人を見抜く目も持っていませんでした。
 だから、公正な人事を行わなかったために、反乱が頻発したものと思われます。このことは哀公(あいこう)の末路を見れば明らかです。
 現代社会においても全く同じようなことがよく聞きます。歴史が繰り返されるということです。
(了)


論語に学ぶ人事の心得第34回 「官職に就いて成功するにはどう心掛けるべきか?」

子張(しちょう)像:国立故宮博物館蔵

 孔子と最年少弟子、子張(しちょう)との対話です。
 孔子の直弟子です。姓は顓孫(せんそん)、名は師(し)、字は子張(しちょう)と言います。 孔子より48歳年少でした。孫ほどの年差があります。
 本項は第二編為政—18ですが、論語19編に子張(しちょう)編として特別に大きく取り上げられています。子張(しちょう)は孔門十哲には入っていませんが、若手のリーダーともいうべき存在で、優秀な弟子でした。
 孔子の弟子には官職を目指す弟子が多かったのですが子張(しちょう)もその一人でした。
 自信に満ちた駿馬のごとき子張(しちょう)を目の前にして孔子独特の考えさせる指導方法で対応します。
 急(せ)いては事を仕損じると言わんばかりです。
 老練な孔子ならではの示唆に富んだアドバイスがひときわ異彩を放っています。

 為政2-18「子張、祿を干(もと)むるを學ぶ。子曰く、多く聞きて疑はしきを闕(か)き、愼(つつし)んで其の餘(あまり)を言へば、則ち尤(とがめ)寡(すくな)し。多く見て殆(あやうき)を闕(か)き、愼みて其の餘(あまり)を行へば、則(すなわ)ち悔(くい)寡(すくな)し。言(げん)に尤(とがめ)寡(すくな)く、行(おこない)に悔(くい)寡(すくな)ければ、祿(ろく)其の中(うち)に在り。」

 「子張(しちょう)、祿を干(もと)むるを學ぶ」とは「子張(しちょう)は官職に就き俸給を得る方法を師に尋ねた。先生は言われた。
 「多く聞きて疑はしきを闕(か)き、愼(つつし)んで其の餘(あまり)を言えば、則ち尤(とがめ)寡(すくな)し」とは、できるだけ多くのことを聞いて疑わしいことは口にせず、確かなことを慎重に扱えば過ちが少なくなる。
 「多く見て殆(あやうき)を闕(か)き、愼みて其の餘(あまり)を行えば、則(すなわ)ち悔(くい)寡(すくな)し」とは、できるだけ多くのことを見て、あやふやなものを除き、確かなことのみを慎重に行えば後悔しなくて済む。
 「言(げん)に尤(とがめ)寡(すくな)く、行(おこない)に悔(くい)寡(すくな)ければ、祿(ろく)其の中(うち)に在り」とは、言葉に過ちが少なく、行動に後悔が少なければ、官職や俸給は後からついてくる。

 論語の教え35: 「先憂後楽の精神」で仕事に励めば、結果は自ずとついてくる」


正のスパイラル:出典Bing


 ◆先憂後楽とは?
 その意味するところは、「常に民に先立って国のことを心配し、民が楽しんだ後に自分が楽しむこと。転じて、先に苦労・苦難を体験した者は、後に安楽になれる」ということです。「憂」は心配することです。中国,北宋の政治家で文学者でもあった范仲淹(はんちゅうえん)の著作「岳陽楼記」がこの名言の語源です。
 「天下の憂えに先んじて憂え、天下の楽しみに後(おく)れて楽しむ」ということから国家の安危については人より先に心配し、楽しむのは人より遅れて楽しむこと。志士や仁者など、りっぱな人の国家に対する心がけを述べた語」(出典:コトバンク)だと言われています。
 この話は現代にも十分通じる話です。経営者が自分たちの利を先に考え、従業員の福祉を後回しにすれば従業員は士気を下げてしまって働く意欲を無くしてしまいます。従って上に立つ指導的立場の人に先憂後楽の精神があれば会社はボトムアップすることが必定です。
そして、会社が発展するための正のスパイラルが回り始めます。

 ◆人事処遇は求めるものでなく、作り出すもの
 給与、賞与、昇進、昇格などの人事処遇は会社から与えられるものではありません。本項で孔子が子張(しちょう)にアドバイスしているようにやるべきことをきちんとやっていれば、自分から求めなくとも結果は後からついてきます。
 やるべきこともやらずに権利だけ主張していても、会社に支払い能力がなければどうにもなりません。私たちのこれまでのコンサルティング経験によりますと給与や昇進などの処遇に動機づけられている社員が多い企業ほど業績が悪く、社員の求めるところとは反対に給与や賞与などの処遇が悪くなって社員の不満が鬱積しています。
 先に正のスパイラルのことを述べましたがこのような企業は逆に負のスパイラルに陥ってしまっています。これではどんな対策を打っても的外れになってしまいます。
 まず、分配する原資を全社一丸となって稼ぎ出すことです。自分たちの人事処遇の源泉は顧客がそのすべてを握っていることを全社員が心底認識することが大切です。(了)


論語に学ぶ人事の心得第33回 「人間の仮面の裏側にある真の姿を見抜くためにはどうすべきか?」

子路像:国立故宮博物館蔵

 本項は子路と対話です。ここでも孔子の弟子に対する指導の仕方が明確に示されています。いわゆる「三者三様の教え」です。
 子路は孔子より九歳年少の弟子で、孔門十哲の一人です。孔子の最も初期の弟子の一人でもあります。姓は仲、名は由、字は子路です。
 政治の才を孔子に評価されました。初めて孔子に会った際は、武装して孔子をおどしたと伝えられています。
 若かりし頃は腕っぷしが強く剛直でした。ところが、孔子は子路の武骨な態度にはいささかたりとも動じませんでした。何しろ孔子自身は身長2mを超える大男でしたし気迫たるや子路をはるかに凌いでいました。最初は居丈高(いたけだか)だった子路も孔子と面会後心酔して、その生涯を終えるまで教えを乞うことになりました、
 孔子は子路の脅しに対してなぜ屈しなかったのでしょうか?
 孔子は子路がこのような外面とはまったく異なり、内面は神経質な男であることを見抜いていたからでした。

 為政2-17「子曰く、由(ゆう)、女(なんじ)にしるを誨(おし)へんか。之をしるを之をしると爲(な)し、しらざるをしらずと爲(な)す。是れしるなり。」

 先生は言われた。「由(ゆう)、女(なんじ)にしるを誨(おし)へんか」とは由(ゆう)よ、おまえに知るとはどうゆうことか教えよう。「之をしるを之をしると爲(な)し」とは分かったことは分かったこととする。「しらざるをしらずと爲(な)す」わからないことはわからないとする。「是れしるなり。」とはこれが知るということだ

 論語の教え34: 「人間はすべからく仮面(ペルソナ)をかぶった存在である。仮面の内側に人の真の姿が見える」

 ペルソナという言葉があります。英語のパーソン(人)の語源にもなったラテン語です。心理学用語では仮面のことです。心理学者ユングは人間の外的側面をペルソナと呼びました。人は誰でも仮面をかぶっているとの謂れ(いわれ)から用いたのです。

 仮面の内側に何があるか?
 私たちのパーソナリティの構造は内面から順に気質、性格、態度、技能、知識で構成されています。内側に行けば行くほど変革させることがむつかしくなります。


能面:出典Bing

 例えば、気質は親から遺伝的に受け継いだもので後天的に変わるものではありません。
 次の性格ですが、気質ほどの先天性はないにしても幼少期に形成され、その後の変容はほとんど見られないと言われています。
 態度は辞書によりますと「ある対象や個人を取り巻く環境の一部分に関連して、個人のパーソナリティのなかに形成されている行動や反応の準備状態」とあります。
 要するに可視化されたその人の素振(そぶ)りです。前述の子路が孔子に対してとった武力を用いた脅しなどがその典型的な事例です。
 態度の外側には技能があります。繰り返し訓練することで体に覚えさせている術(すべ)を言います。頭で理解しても体は動きません。
 繰り返し行動しても同じ結果が得られるのは訓練して体に覚えさせているからです。最後に最も表面的で頻繁に目に触れるのが知識です。繰り返し同じ知識が現れるわけではありませんし、現れたものがすべて私たちの頭の中に残るわけでもありません。知識はめまぐるしく私たちの周りに現れますがその大部分は忘却の彼方へと追いやられるか陳腐化してしまいます。

 「知っていること」と「知らないこと」
 「学べば学ぶほど学ぶ領域が見えてくる」あるいは「知れば知るほど知らないことが増えてくる」と言われます。
 知らないことを知っているように装うことを知ったかぶりと言います。学ばない人ほど自分は学ぶ必要がないと思い込んでいます。学ばないと自分に何が不足しているのか見えていないのです。
 単に知っていることは知らないことと同然であるとも言われます。知識はあるのですが何も主体的に行動しない人のことです。いわゆる評論家といわれる人々のことです。この人たちは問題が起こる前には何も言わず、起こってしまったら批判するのが得意です。
 知っていることと知らないことを意識的に観察していれば、知れば知るほど知らないことが見えてくるという冒頭の言葉が心の底からわかるようになります。
 本項で取り上げた孔子が子路に教えたかった真意はどこにあったのか考えてみてください。
 子路は一見豪放磊落な人物です。考える前に行動してしまう傾向があり、このような子路に考えさせ、孔子が指摘するのでなく自らの気づきにより態度変容を起こさせる方法を選択したのです。(了)


論語に学ぶ人事の心得第32回 「百花繚乱の諸説に惑わされないためにはどうあるべきか」

 百人寄れば百様の考えがあります。しかも、人はだれでも自分の考えが正しいと思っています。自分の考えが異端とか間違っているなどと思っている人は誰もいないでしょう。だから、自分の正義を人に押し付けます。
 しかし、その前にやるべきことがあるはずです。
 異端は正統の対語で用いられる言葉です。辞書によると『異端は正統あっての異端、つまり「異端」という概念は、「正統」という概念があって初めて成立するものであり、それ自体で独立して成立する概念ではない。「正統」と見なすものがあり、それではないものを「異端」と見なすということである』と解説されています。


孔子と弟子たち出典:Bing


 そうであるならば、孔子の正統とは何をもって正統とみなしたのでしょうか?
論語に関する参考書によりますとこれまでにはそれこそ異論、異説が続出し定まった説はないようです。
 そこで、私は大胆にも以下の説を考えました。読者の批判を仰ぎたいと思います。
孔子が考えた正統とは「物事の本質や自然の摂理のこと」であって、孔子の唱える「三綱五常」三綱(君臣、親子、夫婦)五常(仁・義・礼・智・信)のことではないかと思います。
 なぜ、このように解釈するかと申しますと、孔子は多くの弟子に対し学ぶことの基本原則を伝えたかったのだと思うからです。
 弟子の諸君よ! まず、基本原則を忠実に習得しなさい。学んだあと、そこから異なった考えを学習することで視野を広め、応用する能力が身に付くのだよと叫びたかったのだと思います。
 基本原則もわからないのに無秩序に多くのことを学んでも頭が混乱するだけだからです

 為政2-16「子曰く、異端(いたん)を攻(おさ)むるは、斯(こ)れ害(がい)あるのみ」

 先生が言われた。「異端(いたん)を攻(おさ)むるは」とは正統ではないよこしまな教えに入り込んでしまえば。「斯(こ)れ害(がい)あるのみ」とはこれはもう災いでしかない。


孔子廟出典:Bing


 論語の教え33: 「まず基本原則を習得せよ。しかる後に実践し応用することを考えよ」

 「よい理論」ほど「実践的」なものはない
 理論と実践は必ずしも一致しないという人が多くいます。理論は現場で実践してみて初めて役に立つともいわれます。ある意味正統な考え方でしょう。ここで大切なことは、私たちは自己の考え方のバックボーンとなるような優れた実践的な理論を学んでおくことが異端なものに惑わされないことへの備えだと思われます。
 ところで、優れた理論ほど実践的なものはないと主張した人がいます。行動科学の創始者Lewin, K.(クルト=レヴィンです。「アクションリサーチの祖」としても知られるレヴィンは、「研究」と「実践」のあいだを往還しながら、おそらく、そこに葛藤と可能性をおぼえ、自らの理論と実践を発展させていきました。自然科学系と異なり社会科学の「解」は実験で求められませんからどうしても試行錯誤の中での経験法則を導き出すという手間暇がかかります。
 私たちは先人の優れた功績を活用し経験法則を導き出すためには上記にある「実践」と「研究」を意識的に往復させながら自分流儀を編み出す必要があります。その繰り返しの中で自信もつき、確固たる信念が持てるようになるのだと思います。ここまでくれば占めたものだと思います。
 そして、次の進歩のためにこの世の中に百花繚乱のごとく存在する諸説に触媒されると新たな発想が蘇ってきます。
 B=F(P E) 人間の行動は個人の特性と取り巻く環境に影響されて起きる
 この方程式も前記の行動科学の創始者Lewin, K.(クルト=レヴィン)が見出した方程式です。Bは、behavior、行動 Pは、personality、個人の特性 Eは、environment、環境 です。
 私たちの人間行動は、自分のパーソナリティーだけでおきるのではなく、環境の影響を受けて起きているということです。
 ほかに類友の原則というのもあります。自分の周りには同じような考えを持った人が集まるというものですがこれも自分個人の考えだけでなく人との関係で同じ環境を選んでしまうこと指しています。
 たとえば、自分としては「一所懸命仕事したい」と思っていても、職場の同僚がやる気がなく「お前は何で会社の言いなりになるのだ」と否定的なことを言われたら、それをはねのけて一人だけで仕事をやり続けることは難しくなります。
 (P)は、仕事したいのです。でも、(E)は、仕事できる環境ではないのです。そこで、仕事しないという同調行動(B)になるのです。 だから、自分を取り巻く環境を前向きな考えを持つ人たちに取り巻かれるよう整えましょう。
(了)


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