論語に学ぶ人事の心得第31回 「私たちはなぜ学んで、考えなければならないのか?」

孔子立像出典:Bing

 本項は孔子の人材育成方針の真髄にあたる部分です。改めて孔子の人を育てる考え方を確認しておきましょう。
 孔子の人材育成方針は「自ら考え自ら実践する人材を育成する」ことでした。そのために三つの育成方法がありました。

 第一は、「三者三様の教え」です。
 個々人ごとに指導の仕方を変えています。 
 人を見てその人にマッチした指導方法を選択します。孔子は同じ質問をされても人が変われば同じ回答していません。その人の性格や能力に応じ理解させる指導方法があるからです。それはまた、人間は個人ごとに別人格を持ち、能力もニーズも違うからでもあります。

 第二は、「正解を導き出す思考過程の教え」です。
 質問されたときにはすべての正解を答えず、考えさせる示唆(ヒント)を与える回答をしています。質問されたことにダイレクトに答えているだけでは質問した人の依頼心が増えるだけで、自分で考えることや自分で正解を導き出す習慣が身に付きません。何回も同じような質問を繰り返すことになります。だから、考えさせる習慣を身に付けることが必要であり大切なのです。

 第三は、「常に事実を検証することの教え」です。
 学んだことは「鵜呑みにせず必ず調査分析して確認することです。そして、孔子が大切にしていることは必ず自分の意見を添えて、納得して自分のものにしなさいというものでした。要するに、学ぶということは知識そのものを増やすことが目的でなく、学んだ知識を深く思索して実践することが大切であるというものです。まさに今回取り上げた内容そのものです。

 本項は、とても2500年も前に対話された内容と思えません。はるかな時間を超えて現代にも脈々と通じているのです。

 為政2-15「子曰く、學んで思わざれば、則ち罔(くら)し。思ひて學ばざれば則ち殆(あや)うし。」

 先生は言われた。「學んで思わざれば、則ち罔(くら)し」とは書物や先生から学ぶが
 自分で考えないと単に知識が増えるだけで頭の中が整理されず混乱するだけだ。「思ひて學ばざれば則ち殆(あや)うし」とはその反対に、ただ思索にふけっているだけで学ばなければ、独善的で独りよがりになってしまう。

 論語の教え32: 「組織も個人も目的を明確にして、バランスの取れた育成と学習に取り組む」

 ◆初めに育成目的ありき
 「組織は戦略に従う」という言葉があります。この言葉の意図するところは「組織は会社の戦略を遂行し実現するために編成される」ということです。ここでいう組織とは組織機構図だけではありません。人材配置された実働部隊を意味します。この観点から人材育成の目的を考えてみましょう。

 目的1.会社の発展の確保
 ご承知の通り、会社には経営理念、経営ビジョン、経営方針があります。これらを実践し実現するのはすべてその会社の社員です。経営者だけでできるわけではありません。経営者のリーダーシップのもと社員の総力を結集し、日々切磋琢磨することで初めて実現できるものです。社員の成長のスピードが会社の成長のスピードと正比例すると言っても言い過ぎではありません。また、会社の競争力は社員の問題解決のスピードに正比例するともいわれます。このように社員を育成することは会社の発展に直結しています。

 目的2.戦略と人材育成の統合
 戦略と関連しない人材育成は意味がありません。それこそ、時間と資金の浪費というほかありません。
 第一義的に会社の発展に貢献できる人材育成を優先すべきです。人の能力には総合判断力と対人能力と専門能力があります。そのバランスは職責と職能で決まります。 
 一般的に会社の上位職位になればなるほど総合判断力が求められますし、下位職位ほど専門能力が求められます。管理職であれば、この三つの能力がバランスしていなければならないでしょう。
 第二には人材育成が戦略を妥協させてはなりません。タイミング的に最適な戦略を選択したとしても遂行する人材が育っていないからという理由で戦略を先送りしてしまわないことが重要です。人材育成に時間がかかるので戦略とのアンマッチが生じてしまうとどうしようもありません。ここに人事の先見性が求められる所以(ゆえん)があります。


人材育成概念図:出典Bing

 目的3.人材の量と質の確保
 会社にとっての人材は要因の質と量で決まります。要員の量は採用業務になります。要員の質は人材育成業務です。
 人材育成には長期的課題と短期的課題があります。前者は戦略的人材育成で会社の戦略(中長期計画)に対応しています。後者は問題解決型人材育成で会社の事業計画(1年以内の経営課題)に対応しています。ここで大切なことは人材育成には戦略と連携した目標組織図を描かなければならないことです。
 そうしなければ要員の質が見えてきません。当然のことながら人材育成計画も策定できなくなります。

 ◆人材育成施策の均衡と統合
 ①経験教育と知識教育の均衡
 人材育成はOJTと呼ばれる職場内教育とOFFJTと呼ばれる集合教育に大別されます。職場内内教育には上司からの個別的な指導に加えジョブローテーションやキャリアプログラムなど異質な職務や部門を経験することで能力向上を図る育成施策があります。集合教育には階層別教育や職能別教育があります。
 重要なことはこれらを均衡させることが重要であり、このどちらにも偏ってはならないことです。

 ②企業ニーズ(育成目標)と個人ニーズ(成長目標)の統合
 企業ニーズは言うまでもなく戦略を実現するための育成目標です。これが人材育成の支柱であります。しかしながら、社員個人の個別ニーズによる人材育成にも対応しなければなりません。社員には個人の生きがいややりがいをベースにした欲求があるからです。ここでは両者の均衡ということではなくあくまで統合すべきです。
 というのはあくまでも人材育成の中核は企業戦略を実現するためであり、その枠内で個人ニーズを充足することが望まれるからです。(了)


論語に学ぶ人事の心得第30回 「古代から現代まで繰り返される人間関係模様は?」

 本項は孔子が君子と小人の違いについて語ったものです。
 論語ではこの君子と小人を対比して語られる場面がしばしば登場します。
 君子という言葉は論語学而編1-1に登場してから何回もありました。君子とはもともと貴族を指した言葉ですが、一角(ひとかど)の立派な人物、指導的地位にある人、リーダーあるいは組織のトップという意味にも使われるようになりました。


孔子像:出典Bing

 一方、小人とは身分の低い階層に属し、芳しくない性向を持つ者という意味ですが、孔子は品性の下劣な人を指して使っています。つまらない人、器の小さい人といった意味に用いられます。人間関係は損得で決まるのではありません。
 しかしながら、論語里仁(りじん)編第四-16で「子曰わく、君子は義に喩り、小人は利に喩る」と本項と似たような取り上げられ方をしています。つまり、君子は正義に敏感に反応し、小人はお金に反応すると孔子はズバリ的をついています。
 優れた人物というのは人としてのあるべき姿を判断基準としているのに対し、小さな人物は自分が儲かるかどうかを判断基準にしていましす。このような人間関係では権力を持っている時には人は集まり媚びへつらいます。ところが、権力を亡くしたとたんにまるで引き潮のごとく人は去ります。

 為政2-14「子曰く、君子は周(あまね)くして比べず、小人は比べて周(あまね)からず。」

 先生は言われた。「君子は周(あまね)くして比べず」とは人の指導的立場に立つ人は節度をもって誠実に付き合い、派閥を作らない。「小人は比べて周(あまね)からず」とは、つまらない人物はその逆でなれ合いをしてべたべたとした付き合いをするが節度がない。また、すぐ、派閥を作りたがる。

 論語の教え31: 「良き人間関係のコツはヤマアラシのジレンマに陥らないことだ」

 ヤマアラシのジレンマとは?
 「ヤマアラシ・ジレンマ」とは、人と人との間の心理的距離が近くなればなるほど、お互いを傷つけ合うという人間関係のジレンマのことを言います。アメリカの精神分析医ベラックはこの現象を「ヤマアラシ・ジレンマ」と名付けました。


出典:Bing

 以下の話は現代のイソップ物語です。
 「ある冬の日、2匹のヤマアラシは嵐にあいました。2匹は寒いので、お互いの体を寄せ合って暖をとろうとしたところ、それぞれのトゲで相手の体を刺してしまいます。痛いので離れると、今度は寒さに耐えられなくなりました。2匹はまた近づき、痛いのでまた離れることを繰り返していくうちに、ついに、お互いに傷つけずにすみ、しかもほどほどに暖めあうことのできる距離を発見し、あとはその距離を保ち続けました。」

 人間同士がお互いに親しくなるためには「近づく」ことが必要です。
 いい例が夫婦関係です。結婚したてのときはお互いに新鮮な気持ちで緊張感をもって家庭生活を営みます。やがて、子どもができて家族生活を営むようになると遠慮がなくなり相手の粗(欠点)が気になり始めます。黙っていればよいのですが我慢できなくなって相手に不満を言います。この段階では相手が好きであるがゆえに相手のことが気になるいわゆるアンビバレンス(愛と憎しみが同居している)な状態にあります。
 ここではまだ、愛情や信頼関係が残されているのですが、しばらくたつと罵り合うような不毛の対立が始まります。このように、お互いに近寄りすぎると極度の緊張感にさいなまれ、それが進むと反発が起きます。かといって遠ざかり過ぎると精神的に疎外感が生まれたり、違和感を抱いたりしがちです。
 夫婦関係でなくとも、友人、知人の間でも同様のことが起こります。さらに言えば会社の上司と部下、同僚間でも起こりうる話です。
 結論的に言えば、いい人間関係を持続させるには適正な心理的距離をそれぞれがもつことが大切なのです。
 どうしたらうまく心の距離感をとれるのか、
 では、心理的距離をうまくとって人間関係をコントロールするにはどうしたらよろしいのでしょうか?
 それには、まずは次の三点に留意するといい人間関係が構築できます。

 第一は、相手の人格を認め自分の価値観を相手に押し付けすぎないことです。たとえ親子のような血族関係であったとしても相手の人格を尊重し節度をもって交流することを心掛けることです。ましてや血族関係を持たない第三者には組織の上下関係であっても相手を尊重することが大切です。

 第二は、相手の弱みに付け込み、欠点や不足することを指摘しすぎないことです。
 この世の中には完全な人間は誰もいません。必ず、長所と短所を持っています。相手の短所を無くそうといくら努力しても短所は無くなりません。指摘された相手を不快にするか反発されるだけです。そんなことに無駄な時間を使うなら相手の長所や強みを伸ばすことに時間を使ったほうがよほど生産的です。

 第三は、交流する際に相手に感じたことをストレートの出しすぎないことです。
 言い換えれば、相手の一挙手一投足に関心を持ちすぎないことです。また相手の態度や言動に一々口出しせず、出かかっても飲みこむことが大切です。良かれと思って口出しすることが相手には嫌味に映ります。清濁併せ呑む度量の大きさが人間関係をよくするコツであり、それらが、「ヤマアラシ・ジレンマ」に対する有効な解決方法です。そして、人とのグッド・コミュニケーションの近道だと思われます。(了)


論語に学ぶ人事の心得第29回 「高弟、子貢は指導者とはどうあるべきかを師に問うた」

子貢像:国立故宮博物館蔵

 本項は高弟、子貢(しこう)との対話です。孔子と子貢の対話はいつもテンポが速く、雄弁家同士の対話で見応えがあります。子貢(しこう)は学而編1-15に出てきたあの弟子です。改めて紹介しましょう。姓は端木(たんぼく)、名は賜(し)、字は子貢(しこう)です。『史記』によれば衛国出身、孔子より31歳年少。弁舌(言語)の才を孔子に評価されました。孔門十哲の一人です。外交官として、また商人として当時の世に知られ、おそらくは孔子一門の財政をも担ったと伝えられています。
 子貢(しこう)との対話で留意したいのは孔子の人材育成方針です。「自ら考え自ら実行」というのが基本ですが、その中で以前にも触れましたように「三者三様の教え」に注目したいと思います。要するに個人の育成ニーズは個々人ごとに異なり存在するということです。
 と言いますのも、もともと子貢はとても能弁の人で、口から先に生まれたような人でした。口が達者であることを孔子自身が評価したのですが、そうであればこそ「子貢よ、お前は理屈を言う前にまず行動しなさい」と言いたかったのかもしれません。

 為政2-13「子貢(しこう)、君子を問ふ。子曰く、先(ま)ず行(おこな)ひ、其の言(かた)りは之(これ)に從(したが)へ。」

 「子貢(しこう)、君子を問ふ」とは子貢(しこう)は先生に指導者たるものはどうあるべきかを質問した。「子曰く、先(ま)ず行(おこな)ひ、其の言(かた)りは之(これ)に從(したが)へ」とは先生は子貢(しこう)にこう答えた。「指導者たるものは、まず言いたいことを実行し、そのあとで、言葉がついてくるような行動がとれる人でなければならない」

 論語の教え30: 「人の上に立つ指導者たるものは不言実行のできる人だ」


孔子立像出典:Bing


 「不言実行」と「有言実行」とは?
 ここでは、「不言実行」と「有言実行」の優劣を論じているのではありません。しかし、孔子は人の上に立つ指導的立場に立つ人はあれこれと理屈を言う前に黙って実行する人だと語っています。それは前述したように能弁である子貢から質問されたからです。
 「不言実行」とは、黙ってなすべきことを実行するという意味です。
 一方、「有言実行」とは、言ったこと、人の前で宣言したことを必ず実行することです。 例えばあなたが部下に「新規顧客を5社獲得する」と宣言したとします。実際にそれを実現させたら、あなたは有言実行したことになります。 言ったことは必ず実行したり実現させたりする人を「あの人は有言実行の人だ」と周りから尊敬され信頼されます。
 通常のビジネス社会では上に立つ人は「指示命令する人」、「引っ張る人」のイメージが強いのですが、黙って実行する人こそ行動力のあるのリーダーの証(あかし)だと言えると思われます。

 部下の美辞麗句に惑わされず、公正に人事管理する
 孔子は学而編1-3「巧言令色鮮し仁」で言葉巧みに人に取り入る人間は信用できないと述べています。孔子はぺらぺらと空疎な美辞麗句を操ることを極端に嫌いました。美辞麗句を並べる人物は古今東西どこにでもいます。このような人物も問題ですが、それより問題なのは上位者が表面的な気持ちよさから信じこんでしまうことです。
 権力を持てば持つほど媚びへつらう人や二枚舌を使う人が押し寄せます。二枚舌に乗せられる上司を脇が甘いとよく言われます。苦労したことがなく、周りから持ち上げられてきた人に多くみられる傾向です。心にもない美辞麗句に乗せられて人事の依怙贔屓(えこひいき)が組織に蔓延しますと上に立つ人の信用がなくなるだけですみません。組織そのものが活力を無くし、やがては衰退の道を進むことになります。私たち人類の歴史はこの騙し合いの歴史でもありました。今日まで綿々と繰り返されています。(了)


論語に学ぶ人事の心得第28回 「指導的地位に立つ人は用途の決まった道具であってはならない」

 本項はたった7文字しかない短い文章です。しかしながら、その中身はというと人事の支柱ともいうべき根本原理が詰まっています。
 まず「器」という言葉ですが古くから二つの意味で用いられてきました。


食器としての土器 出典:ウイキペディア

 一つ目はりっぱな才能の持ち主という意味です。例えば「あの人は器が大きい」というように使われます。もう一方は道具としての意味です。石器、鉄器、食器などとして使われます。本項で使われている意味は後者です。道具は便利ですが用途は限定的で決まっています。

 孔子は本項で何を言いたかったのでしょうか?
 リーダーたるものの心得として二つの思いがあったと私は思います。
 その第一は、君子(指導的立場に立つ人)たるものは自分で限界を造ってはならないということです。人間には無限の可能性が備わっています。この潜在力を一つの単なる器として閉じ込めてはならないということです。
 第二は、君子(指導的立場に立つ人)たるものは一つのことしかできない道具であってはならないということです。若かりし頃より何事にも興味を寄せ見分を広めることで人の上に立つ素養が自然と身につくのです。

 孔子の生い立ちが上記のことを実践したことを物語っています。
 孔子は最初に出仕したときの仕事は下級中の下級官吏である倉庫番でした。それから家畜の番人なども経験しています。これらは決して満足した仕事でなかったはずです。
しかしながら、孔子は嫌がりもせず与えられたいろいろな仕事を経験する中で師としての技量を身に着けていくのです。この経験が孔子の後半生に決定的な影響を与えることになりました。


 為政2-12「子曰く、君子は器(うつわ)ならず」

 先生は言われた。「君子は器(うつわ)ならず」とはいずれ社会のリーダーになる弟子諸君は使い道の決まった道具(食器)のようになってはならない


 論語の教え29: 「人の上に立つ指導者を目指す人はゼネラリストであれ」

 人間には理系タイプと文系タイプがあるように、能力にも二つのタイプがあります。いわゆるゼネラリスト(管理職・指揮官型)タイプとスペシャリスト(専門職・参謀型)タイプです。これらには優劣はありません。しかしながら、両方の資質を同じレベルで備わった人はほとんどいないと言っても言い過ぎではありません。


孔子像 出典:Bing


 上に立つ人は幅広い心と関心を持て
 孔子は人の上に立つ指導者にはゼネラリストがふさわしいと言っています。しかしながらスペシャリストよりゼネラリストが優れていると言っているのではありません。人にはその人に天が授けたタイプがあります。また、人にはそれぞれの立場で果たすべき役割もあります。スペシャリストであれ、ゼネラリストであれ、まず、これらの任務を全うすることが重要です。
 従って、自分のタイプに最適な仕事を選択することが望まれます。自分のタイプと職務がマッチすれば自分を向上させる正の循環が始まるからです。
 それでは、最適な職務を選択するにはどうすればいいのでしょうか。それには前述したように自分の可能性を試すために幅広く経験を積み重ねることで可能になります。若かりし頃はえり好みせずいったんは挑戦してみることです。
 このことを孔子が生涯をかけて実証しました。孔子だからできたのだと思うかもしれませんがそうではありません。誰にでもできることだから孔子は弟子や次代を担う若者に呼び掛けたのです。
また、なぜ、上に立つ人は幅広い関心を持つ必要があるのでしょうか?
 リーダーは多くの人に導き進むべき方向を示さなければならないからです。それは、自分だけの関心事だけでなく、広い心で多くの人の関心事も理解しなければなりません。この広い心で何事にも関心を寄せることは多くの人を導くための必須事項です。

 処遇と責任を混同するな
 かつて、人事管理はゼネラリスト優位論が主流でありました。俗な言葉でいえば職制上の地位が上がらなければ出世できないし、給与も上がりませんでした。そこで、給与を上げるために職階と職位を数多く増やし続けました。
 その結果、部長、課長、係長、主任という正規の職制に加え、副部長、副課長、副係長、副主任といった職責とは関係のない名称が組織内に氾濫することとなりました。
 また、部下を持たない名前だけの管理監督職も生まれました。
 その結果、人事の停滞や硬直化が始まりました。責任を持たない名前だけの役職者が激増し組織編成ができなくなったからです。しかも、いったん付けた肩書は簡単に外すことができません。なぜなら、給与と直結しているからです。ここでも人事の硬直化が顕著になりました。
 本来、職制制度は事業方針を遂行するために職務分掌、職務権限、職務責任を明確に規定したものです。人事処遇とは全く関係がない仕組みですがそれをあえて同一にして運用したために混乱が生じてしまったのです。
 人事管理を有効に機能させるためには職制制度と人事処遇制度を別々に運用することが絶対条件です。(了)


論語に学ぶ人事の心得第27回 「温故知新とは先人に学び、現代に活かすこと」

 「温故知新」という四文字熟語は誰でも知っている言葉です。温故知新の意味は「過去のことを研究して、そこから新しい知見を見つけ出すこと」です。 論語で取り上げられて以来2500年の時を超えて現代でも十分通用する言葉として燦然と輝いています。


若き孔子像 出典:Bing

 孔子はもともと歴史に学ぶことを重視し実践していました。本項はその孔子の実体験に基づいて、周りにいた弟子や将来のリーダーになる人に贈られた言葉です。
 孔子が関心をもって学んだのは古代中国の賢帝と言われる帝王が実際に取り入れた統治制度や律令を研究することでした。
 孔子が優れている点は、それらの古い時代を研究することで得た知識や道理をそのまま受け売りするのではなく自分なりの考えを培養して、その時代に通用する知見として活用したことでした。孔子が自ら述べているように単に頭の中で理解していることは真に学んだとは言えず、実践できて初めて学習したことになります。
 そして、孔子は弟子に将来地域社会の指導者として活躍し、使命を果たすことを期待していました。孔子の期待する指導者像は知識の豊富な頭でっかちのリーダーになることではありません。論語ではしばしば「君子」という言葉が出てきます。君子とは徳を積んだ周りから信頼される人という意味です。高貴な近寄りがたい権力者ということではありません。

 「温故知新」における「温」は、「たずねる」と読みます。 温(たずねる)は「尋ねる」「習う」「復習する」「よみがえらせる」といった意味を持っています。 「故」という字は、「昔、以前」「もとより、はじめから」「古い」などといった意味です。 それらが組み合わさり「過去のことを研究する」といった意味になりました。 「知新」はそのまま「知る」と「新しい」で「新しいことを知る、新しい知識をもつ」といった意味になります。

 為政2-11「子曰く、故(ふる)きを溫(たずね)て新(あたら)しきを知る、以(もっ)て師と爲(な)る可(べ)し」

 先生は言われた。「故(ふる)きを溫(たずね)て新(あたら)しきを知る」とは過去を過ぎ去った時間だとして捉えるのではなく、現在の問題として認識すること。以(もっ)て師と爲(な)る可(べ)し」とはその様にすれば人を教える立場になるころができる。


 論語の教え28: 歴史という長い時間軸で熟成した人類の英知を活学すべきだ


若きビスマルク像 出典:ウイキペディア

 教え1「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」
 この名言は初代ドイツ帝国宰相であるオットー・フォン・ビスマルクの残した言葉です。いきなりドイツ人の話が出てきて驚かれたと思います。
 時代も国も文化も全く異なる社会に生きた二人の偉人に共通する考え方を紹介する意味であえてここで引用しました。
 ビスマルクの言っている「愚者は経験に学ぶとは愚かな人は自分一人の経験からしか学べない。「賢者は歴史に学ぶ」とは、賢い人は長い歴史に脈々と流れる他人の経験を含む歴史的事実から学んでいるという意味です。
 論語の温故知新の故(ふるき)を温(たずね)と言っているのはまさに歴史に学ぶということです。
 そして、歴史に学ぶことは限りある個人の知見より多くの人が経験してえた知見のほうがはるかに確実性の高い情報になるからです。


 教え2「同じ失敗を繰り返さないために、故(ふるき)を温(たずね)て、先人の経験法則を学ぶべきだ」

 ご承知のように、経験法則は一朝一夕(いっちょういっせき)にできるものではありません。長い時間をかけて人類が蓄積してきた普遍性を持った決まりごとです。
 歴史は私たちが長い時間をかけて熟成した実際におきた事例です。そこには成功した事例もあれば、失敗した事例もあるでしょう。また、成功したがゆえに失敗を引き起こす誘因となった事例もあります。

 私たちが「故(ふるき)を温(たずね)る」理由には次の二点が想定されます。

 第一は先人が失敗した事例や成功したことが誘因となって失敗した理由を研究し二度と同じ過ちを犯さないためです。
 私たちが営んでいる人間社会は自然科学界と異なり正解が一つであると断定できません。正解が複数ある場合もあります。また、ある時は正解であっても、環境が変われば不正解に変化することがあります。
 従いまして、これらに的確に対応するには事例研究を怠らないことです。それは、知識を増やすためでなく、数多くの事例に触れ、繰り返し事例を解く訓練をすることにより思考力を強化することです。後世、ケースメソッドと言われる学習方法が開発されました。そこで討議を積み重ね、経営責任者としての思考力を鍛錬することで最適な対応策をまとめ上げるのです。
 ここでも孔子の人材育成方針が生きてきます。
 それは、「自ら考え、実行する思考力を養成すること」です。
 そのために、「三者三様の教え」「正解を導き出す思考過程の教え」「事実を検証することの教え」の三点を実践しました。

 第二は不測の事態が勃発したときにその対応策を誤らないためです。
 この世の中で、将来何が起こるのかを確実に予見することは不可能です。未来はすべて神のみぞ知る世界です。将来何が起こるかは誰にも分かりません。そこで、何かが起きた時にどう対応するか、教材は過去にしかありません。そして、それを自分の身体に叩きこむことです。
 ここに私たちが「故(ふるき)を温(たずね)る」理由があります。
 天災や人災であれ、災害、事件や事故がいつ起きても不思議ではありません。
 いずれまた大きな天災が起こるでしょう。その時に災害への対応策を勉強した人としなかった人、どちらが助かりやすいかは誰にでも分かります。歴史を学ぶ大切さは、これに尽きます。(了)


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