論語に学ぶ人事の心得第25回 「私は弟子顔回(がんかい)に真の仁者を見た思いがした」

顔回像 国立故宮博物館蔵

 本項は最愛の弟子である顔回(がんかい)についての孔子の評価を述べたものです。顔回(がんかい)は姓を顔(がん)、名を回(かい)、字(あざな)を淵(えん)と言いました。孔子より30歳年少です。



 孔子からは徳=人格力の実践に優れていると評された、孔門十哲の一人です。
 生前に孔子から仁者と言われたのは3000人もいたと言われる弟子の中で唯一顔回(がんかい)だけでした。
 仁者とは儒教の最高教義である五常(仁・義・礼・智・信)の仁を悟った人という意味です。師からのこれ以上ない誉め言葉でした。他の弟子がとてもうらやましく思ったというのもむべなるかなと言えるでしょう。
 師にその将来を嘱望されましたが、孔子に先立つこと二年前に死去してしまいます。「天は我を亡ぼせり」と嘆かせた(論語先進篇8)と伝えられています。

 為政2-9「子曰く、吾(わ)れ回(かい)與(と)言ひて終日(ひねもす)、違(たが)はざること愚(ぐ)なるが如し。退(しりぞ)いて其の私(わたくし)を省(かえり)みれば、亦(おおい)に以(もっ)て發(ひら)くに足れり。回(かい)や愚ならず。」

 先生は言われた。「吾(わ)れ回(かい)與(と)言ひて終日(ひねもす)、」とは顔回と朝から晩まで話をしていると、「違(たが)はざること愚(ぐ)なるが如し」とは逆らわないさまはまるで間抜けのようだ。「退(しりぞ)いて其の私(わたくし)を省(かえり)みれば」とは私の前か退いた後の顔回(がんかい)の私生活を見ると、「亦(おおい)に以(もっ)て發(ひら)くに足れり」とは人をはっとさせるものがある。「回(かい)や愚ならず」とはやはり顔回(がんかい)は決して間抜けではない。

 論語の教え26:『我欲をコントロールし陰日向無く精進できる者こそ真の仁者である』

 顔回こそ真の求道者(きゅうどうしゃ)だ
 辞書によりますと求道者には「きゅうどうしゃ」と「ぐどうしゃ」という二つの呼び方があるようで
 「求道者」を「きゅうどうしゃ」と読んだ場合、意味は「真理や悟りを求めて修行する人」となります。一方「求道者」を「ぐどうしゃ」と読んだ場合は「仏道を求める人」といった意味になります。 仏教の教えや真理を求める人のことです。
 明らかに顔回は前者で、真理や悟りを求めて修行する人でした。仕官もせず、名誉を求めませんでした。貧窮生活にありながら人生を楽しみ、ひたすら仁の修養に邁進したと伝えられています。
 孔子は顔回の真理を追究する高潔な生き方を見て自分の後継者にしたかったようですが前述したように惜しまれて30歳年長の師より先にこの世を去りました。

 我欲をコントロールすることの大切さ
 我欲とは自分一人の利益や満足だけを求める気持ちのことを言います。この我欲は人間なら誰でも持っているものです。また、個人としての人間だけでなく、個人の集まりである集団にも我欲があります。人間である以上この我欲を捨て去ることは通常の場合あり得ません。


群雄割拠する春秋時代 出典:Bing


 さらに、この我欲は正しい方向に制御されていれば何の問題もないのですが、始末が悪いことに時々制御不能な状況に陥ります。この現象は個人にも集団にも同じように現れます。
 組織が制御不能な状況に陥ったら、大抵、大きな問題が発生します。それはその組織が存亡の危機に直面したことを意味しています。
 孔子の生きた春秋時代は小さな国家が乱立し、国家の我欲が暴発した時代でありました。全国各地で争いが絶えませんでした。個人のレベルでも我欲をむき出しにして覇権争いや土地の収奪に明け暮れていました。
 このような時代背景にあって、顔回(がんかい)は師との対話で細かな意見の相違があったとしても議論せず腹で包み込みました。本項の会話にあるように一見馬鹿ではないかと誤解されるほどでした。
 この時代に生きた人間としては珍しいほど自己主張のない素直な人でした。それでいて自分の意見がないのかというと決してそうでなく師の教えを自分なりに咀嚼して実践していたのです。この姿を伝え聞いた孔子は感じ入ります。
 顔回(がんかい)こそ仁者だと…。
 顔回(がんかい)は自分の人材育成方針を真に実践している逸材であると認識したのです。孔子の人材育成方針は前に述べましたように「自ら考え自ら実践する人材を育成する」というものでした。そのために、「三者三様の教え」「正解を導き出す思考過程の教え」「事実を検証することの教え」の三点を強調しました。(了)


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