論語に学ぶ人事の心得第26回 「人事管理の根本原理である人の本性はどのようにすれば見抜けるか」

孔子像 出典:Bing

 人間の心は海より深く、それを理解することはとても難しいと言われます。公的にも私的にも人間関係に悩みを抱えているのは古代でも現代でも変わりません。人間を理解することは孔子の生きた時代から続いている人類の永遠の課題だと言えるかもしれません。
 本項ではその永遠の課題に対して、孔子はとても端的(たんてき)に人間の本性を見抜き喝破(かっぱ)していると思います。
 それには以下の三つの理由(わけ)が透けて見えます。

 第一は、「人間の言葉でなく行動を観察せよ」と言っていることです。
 人間は言行一致していればなんの問題もないのですが、必ずしもそうではありません。この世の中には、耳に心地よい言葉を発していても正義に反する行動をとっている人ははいくらでもいます。いわゆる偽善者と呼ばれる人たちです。
 それに反して、言葉はとつとつとして流暢ではないのですが、行いは社会の鏡になるような立派な人がいます。前回に出てきた師から仁者といわれた顔回(がんかい)のような人です。孔子は顔回の行動から仁者であることを見抜いたのです。
 その人の行動を観察すれば人間の本質が見えてくるという見本を示しています。

 第二は、「人間の行動の背景には必ずその理由(わけ)がある」ということです。また、人間の行動には目的があります。
 人間の本性を知るには行動の理由を理解することがとても重要です。人間の行動の動因でもある動機を把握すれば、必ず、なぜそのような行為を行うに至ったのかも把握できます。それは、刑事捜査で常道的に使われる手法でもあります。
 そして、その行為が罪に問えるかどうかを判断する根拠になります。刑事問題でなくても一般的に言って、人の行為には必ずそのわけがあり。そこから真実や物事の本質がが見えてきます。

 第三に、「人間の行動には達成すべき目標がある」ということです。人は誰でも何の目標もなしに行動することはありません。何かを実現したいために行動するのです。
 それには物質的満足もあれば精神的満足もあるでしょう。いずれにしても人間の欲求を獲得するための行動です。すべての人は何かを実現したり、達成を意識せず行動することはありません。もし何も目標を持たずに行動すれば、時間と金の浪費になることがわかっているからです。
 これら三つの側面から人間の行動を分析し把握すれば必ず人間の本性が見抜けると思います。

 為政2-10「子曰く、其の以(もち)ゐる所(ところ)を視(み)、其の由(よ)る所を觀(み)、其の安(やす)んずる所(ところ)を察(み)れば、人焉(いずく)んぞ廋(かく)さん哉。人焉(いずく)んぞ廋(かく)さん(哉)。」

 孔子はいわれた。「其の以(もち)ゐる所(ところ)を視(み)」とはその人物の行動を観察する。「其の由(よ)る所を觀(み)」とはその行動がどんな理由でなされたかを観察する。「其の安(やす)んずる所(ところ)を察(み)れば」とはその行動の落ち着き先を推察すれば、「人焉(いずく)んぞ廋(かく)さん哉。人焉(いずく)んぞ廋(かく)さん(哉)」とはその人はどうして自分の真の姿を隠すことができようか、どうして隠せようか(隠すことができない)。


孔子廟出典:Bing


 論語の教え27:『人間の本性は過去どのように生きてきたのかを洞察することで見えてくる』

 臨床心理学者はカウンセリングするときに眼前のクライアントがどのように生きてきたのかを可能な限り過去にさかのぼり聴き取ります。クライアントの行動に対して否定も肯定もしません。ただひたすら聞くことに徹します。
 それは、クライアントの人格形成に影響を与えた要因や要素を分析し把握するために行うのです。実は、人事を理解する根本原理が過去にさかのぼることによって見えてくるのです。
 人事の第一の真髄は「その人の過去を知り、現在どのように生きているのかを観察する。そして、未来に向けて何を目指そうとしているのかを見抜くこと」です。
 本項はまさにこの人事の真髄にせまる孔子の人間観を語っています。それにしましても、本項にあるように、孔子の人間観察に対する慧眼には唯々(ただただ)、目を見張るばかりです。

 人事の第二の真髄は「人間の人格を尊重し多様性を尊重する」ということです。
 それは個々人の違いを把握し認識することを意味します。この世の中でただ一人として同じ人物はいません。にもかかわらず、私たちは他人(ひと)をステロタイプ(先入観や思い込み)で一括りにして見てしまいます。例えば、中国人はどうとか日本人はどうとか、また、男だからとか女だからとか、あるいは、年配者だから、若者だからというように束ねて見てしまう傾向があります。そして、違いを認めようとせず、自分たちの文化や価値観を他人に押し付けようとします。そこには理解しあうことや共感することはなく、不毛の対立や軋轢しかありません。
 最近の流行(はやり)言葉でいえば人間はダイバーシティ(多様性)を持った生き物です。その多様性を認めることが人事を進めるうえで最も大切な第一歩です。

 人事の第三の真髄は「人事は人と人の組み合わせだ」ということです。
 つまり、個人と集団の能力は別物であるということです。個人の能力の総和が集団の能力と必ずしも一致しません。いかに個人の能力が優れていたとしても集団でいい成果がアウトプットされるかというとそうではありません。むしろ、逆の場合が多いのです。どうしてでしょうか?
 神輿(みこし)に乗る人、神輿を担(かつ)ぐ人と言われます。集団でいい成果を出すには、それぞれの役割を果たせることが大切です。神輿に乗る人が多すぎても、担ぐ人が多すぎて指揮する人がいなければ集団の成果が期待できません。それがチームワークというものです。
 適材適所という言葉もあります。人にはその人の得意領域があります。その人に最適な仕事を分担してもらえば最高の能力が発揮できるというものです。それで、組織の足し算から掛け算へと変質を遂げるのです。(了)


論語に学ぶ人事の心得第25回 「私は弟子顔回(がんかい)に真の仁者を見た思いがした」

顔回像 国立故宮博物館蔵

 本項は最愛の弟子である顔回(がんかい)についての孔子の評価を述べたものです。顔回(がんかい)は姓を顔(がん)、名を回(かい)、字(あざな)を淵(えん)と言いました。孔子より30歳年少です。



 孔子からは徳=人格力の実践に優れていると評された、孔門十哲の一人です。
 生前に孔子から仁者と言われたのは3000人もいたと言われる弟子の中で唯一顔回(がんかい)だけでした。
 仁者とは儒教の最高教義である五常(仁・義・礼・智・信)の仁を悟った人という意味です。師からのこれ以上ない誉め言葉でした。他の弟子がとてもうらやましく思ったというのもむべなるかなと言えるでしょう。
 師にその将来を嘱望されましたが、孔子に先立つこと二年前に死去してしまいます。「天は我を亡ぼせり」と嘆かせた(論語先進篇8)と伝えられています。

 為政2-9「子曰く、吾(わ)れ回(かい)與(と)言ひて終日(ひねもす)、違(たが)はざること愚(ぐ)なるが如し。退(しりぞ)いて其の私(わたくし)を省(かえり)みれば、亦(おおい)に以(もっ)て發(ひら)くに足れり。回(かい)や愚ならず。」

 先生は言われた。「吾(わ)れ回(かい)與(と)言ひて終日(ひねもす)、」とは顔回と朝から晩まで話をしていると、「違(たが)はざること愚(ぐ)なるが如し」とは逆らわないさまはまるで間抜けのようだ。「退(しりぞ)いて其の私(わたくし)を省(かえり)みれば」とは私の前か退いた後の顔回(がんかい)の私生活を見ると、「亦(おおい)に以(もっ)て發(ひら)くに足れり」とは人をはっとさせるものがある。「回(かい)や愚ならず」とはやはり顔回(がんかい)は決して間抜けではない。

 論語の教え26:『我欲をコントロールし陰日向無く精進できる者こそ真の仁者である』

 顔回こそ真の求道者(きゅうどうしゃ)だ
 辞書によりますと求道者には「きゅうどうしゃ」と「ぐどうしゃ」という二つの呼び方があるようで
 「求道者」を「きゅうどうしゃ」と読んだ場合、意味は「真理や悟りを求めて修行する人」となります。一方「求道者」を「ぐどうしゃ」と読んだ場合は「仏道を求める人」といった意味になります。 仏教の教えや真理を求める人のことです。
 明らかに顔回は前者で、真理や悟りを求めて修行する人でした。仕官もせず、名誉を求めませんでした。貧窮生活にありながら人生を楽しみ、ひたすら仁の修養に邁進したと伝えられています。
 孔子は顔回の真理を追究する高潔な生き方を見て自分の後継者にしたかったようですが前述したように惜しまれて30歳年長の師より先にこの世を去りました。

 我欲をコントロールすることの大切さ
 我欲とは自分一人の利益や満足だけを求める気持ちのことを言います。この我欲は人間なら誰でも持っているものです。また、個人としての人間だけでなく、個人の集まりである集団にも我欲があります。人間である以上この我欲を捨て去ることは通常の場合あり得ません。


群雄割拠する春秋時代 出典:Bing


 さらに、この我欲は正しい方向に制御されていれば何の問題もないのですが、始末が悪いことに時々制御不能な状況に陥ります。この現象は個人にも集団にも同じように現れます。
 組織が制御不能な状況に陥ったら、大抵、大きな問題が発生します。それはその組織が存亡の危機に直面したことを意味しています。
 孔子の生きた春秋時代は小さな国家が乱立し、国家の我欲が暴発した時代でありました。全国各地で争いが絶えませんでした。個人のレベルでも我欲をむき出しにして覇権争いや土地の収奪に明け暮れていました。
 このような時代背景にあって、顔回(がんかい)は師との対話で細かな意見の相違があったとしても議論せず腹で包み込みました。本項の会話にあるように一見馬鹿ではないかと誤解されるほどでした。
 この時代に生きた人間としては珍しいほど自己主張のない素直な人でした。それでいて自分の意見がないのかというと決してそうでなく師の教えを自分なりに咀嚼して実践していたのです。この姿を伝え聞いた孔子は感じ入ります。
 顔回(がんかい)こそ仁者だと…。
 顔回(がんかい)は自分の人材育成方針を真に実践している逸材であると認識したのです。孔子の人材育成方針は前に述べましたように「自ら考え自ら実践する人材を育成する」というものでした。そのために、「三者三様の教え」「正解を導き出す思考過程の教え」「事実を検証することの教え」の三点を強調しました。(了)


論語に学ぶ人事の心得第24回 「孔子、孝を問われて四通りの孝行を語る―共通することは?」

子夏像 国立故宮博物館蔵

 論語では「孝」について孔子との対話が四回取り上げられています。今回はその最終項です。
 子夏は学而編1-7に初めて登場する孔門十哲の一人で、孔子より44歳若い優秀な弟子の一人でした。  子夏は字(あざな)です。姓は卜(ぼく)、名は商(しょう)と言いました。師をうならせるほどの文才の持ち主だったと伝えられています。それにしても孔子との年齢は40歳以上も開いており、前回の子游と同じように孫のような存在の弟子でした。
 孔子は子夏に対しても三者三様の教えに従い子游とは異なった回答をしています。

 為政2-8「子夏、孝を問ふ。子曰(いわ)く、色(いろ)難(かた)し。事(こと)有れば弟子(ていし)其の勞(ろう)に服し、酒食(しゅし)有れば先生饌(そな)ふ。是(これ)を增(かさぬ)るも以て孝と爲(な)らん乎」

 「子夏(しか)、孝を問ふとは子夏(しか)が先生に孝について質問した。先生はこのように言われた。「色(いろ)難(かた)し」とは親への敬愛の表情を表すのが最も難しい。「事(こと)有れば弟子(ていし)其の勞(ろう)に服し」とは行事があれば若いものが労力を出して働くこと。「酒食(しゅし)有れば先生饌(そな)ふ」とは酒や料理を先輩に進めること。「是(これ)を增(かさぬ)るも以て孝と爲(な)らん乎」とはそんなことをするだけで孝行と言えるかどうか」

 論語の教え25:『孔子の教えに共通する「孝」の形而上的意味合いをしっかり理解すること』


孔子廟 出典:Bing


 孝の現象的行為は100人いれば100通りある
 それぞれの家には長年培われた家風があります。先祖から引き継がれたその家のしきたりです。おおよそ、その家風は家長の生きざまを反映したものですが、地域社会の風俗や習慣など地域文化から影響を受けたものです。さらに、世代ごとに獲得した社会的地位や名誉、それに経済力が加わると社会には無数に近い生活様式が存在することになります。そのような生活様式に基づき親孝行の形が様々に形成されてきます。
社会的に成功した人は親孝行と称して先祖を祭る大きな墓石を建立します。また、大きく豪華な邸宅を建てたり、贅を尽くした生活をします。
 また反対に、普通の多くの人々はつつましやかに生きています。
 事程左様に現象面では、百様の生活があれば百様の親孝行の形があります。また、時代が変わればその現象的孝行のスタイルも変わります。
 しかし、どんなに時代が変化しても唯一不変の人間にしかできない孝行があると孔子が説いています。
「それは先祖や親を敬うことだ」
 これが孔子の説く「孝」の形而上的(形に現れない)意味合いです。敬いのない物質的な豊かさで親を扶養することは単なる見栄であり、浪費にしかすぎません。

 孝は強要されるものでなく、子孫が主体的に行う行為である
 ご承知のように親孝行にはされる側とする側があります。
 孔子の考えが卓越しているのは、子に対して一方的に親孝行を強いてはならないと教えていることです。親も生前には子や子孫から敬われる徳を積まなければならないというのです。
例えば、尊敬に値しない親がいたとします。親が老いて子供に親孝行を理不尽に要求したとしても子供から生んでくれと頼んだ覚えはないと反発されるだけです。現代社会では時々こんな話を聞くことがありますし親子の間で刑事事件を引き起こすような不幸な事件もあります。
 これらは「親孝行は子供の義務だ」と誤解している不遜な親が引き起こしていることが多いように思われます。
 ビジネス社会にも同様な現象があります。上司が部下に自分への尊敬を要求したとしたらどうなるでしょうか。その瞬間、上司と部下の信頼関係は修復不可能な絶縁状態になります。部下から尊敬される日々の上司の行為が長い間に蓄積されて信頼関係が構築されるのです。
 孔子の言う孝の形而上の意味合いは「親や上司への究極の孝行は子や部下から敬われることである。
 而もその行為は子や部下に強いるものではない」
 というのが孔子の教えです.(了)


論語に学ぶ人事の心得第23回 「人間にしかできない孝行とはどうすればいいのか」

子游(しゆう)国立故宮博物館蔵

 本項は孝行に対する弟子との対話です。子游(しゆう)は孔子より45歳年下の弟子。孫ほどの年の開きがありました。姓は言(げん)、名は偃(えん)と言いました。文学(古典研究)の才を孔子に評価されました。孔門十哲のひとりです。弟子との対話では前掲の孟懿子(もういし)などの有力者とは異なり気楽な気分で応えています。
 実はここに孔子の指導の真髄が隠されているのです。
 孔子の人材育成の基本は自ら考え自ら行実行する人づくりでした。

 そのためにどうしたのでしょうか?
 第一は三者三様の教えです。
 個人ごとに指導の仕方を変えます。人を見てその人に合った指導をしました。同じ質問をされても同じことを回答していません。その人の性格や能力に応じた指導方法を選択したのです。
第二は正解を導き出す思考過程の教えです。
 質問されたときにすべての正解を教えず、考えさせる示唆(ヒント)を与える回答をしています。孟懿子(もういし)のような権力者には孝を問われて「外れないことだ」と相手に考えさせるとうに答えています。また、その子孟武伯には病にかかって親に心配かけないことが孝行だと回答しています。
 第三は常に事実を検証することの教えです。
 学んだことは「鵜呑みにせず必ず調査分析しして確認しなさい」そして、必ず自分の意見を添えて納得して習得しなさいというものでした。要するに、学ぶことは知識そのものを増やすことが目的でなく学んだ知識をよく思索して実践することが大切であるというものです。

 本項の子游(しゆう)との対話はこれらを裏付けるに最適な場面です。孔子は子游(しゆう)には噛んで含むような表現で孝を説いています。

 為政2-7「子游(しゆう)、孝を問ふ。子曰(しいわ)く、今の孝(こう)なる者、是(これ)能(よ)く養(やしな)ふを謂(い)ふ。犬馬於(けんばに)至るまで、皆(みな)能く養(やしな)う有り。敬(うやま)はずんば、何を以(もっ)て別(わか)たん(乎)。」

 「為政2-7「子游(しゆう)、孝を問ふとは子游が先生に孝について質問した。先生はこのように言われた。今の孝(こう)なる者、是(これ)能(よ)く養(やしな)ふを謂(い)ふとは今どきの孝行は親を養うことを言っている。犬馬於(けんばに)至るまで、皆(みな)能く養(やしな)う有りとはしかしそれだけなら犬や馬でも食糧を与えて養っている。
 敬(うやま)はずんば、何を以(もっ)て別(わか)たんやとは親への敬愛する気持ちがなければ何の区別が付けられようか」

 論語の教え24:「人間にしかできない真の孝行とは親を養うことだけでなく親を敬うことだ」

 孝行とは単に物質的に親を養うことではない
 若い弟子からの問いに対して孔子の答えは「今頃は親を養うことが孝行だという風潮があるようだが、親を養うだけなら馬や犬でもやっている。そんなことで孝行というなら犬や馬と何ら変わらない」という回答でした。
 そして、「本当の孝行とは親を敬うことなんだよ」と諭すように教えたのでした。
 前述したように45歳も年の離れた孫のような存在の弟子に噛んで含めたように世間での誤った風潮をただしながら、それには直接触れずに「孝」の本当の意味を説いています。
 それにしても、驚くのは2500年後の現代社会においても燦然と輝く珠玉(しゅぎょく)のアドバイスであることです。人間社会の進歩は遅々として進まない証(あかし)でもあります。

 現代のビジネス社会における孝行とは上司を敬うことだ
 それでは現代のビジネス社会では孔子の教えをどのように取り入れるべきでしょうか。ビジネス社会は何度も出てくるように血のつながりで構成される社会ではありません。でも孔子の考えは現在のビジネス社会においても全く当てはまることばかりです。
 ビジネス社会といえば所属する組織の中の人間関係です。その関係性や影響力は血族社会より濃密です。会社生活は時間にすれば家庭生活より長いのです。人生の大半は会社生活にあると言えます。その会社生活が面白くなく充実していなかったとしたら大変です。
 子供が親を選択できないのと同様に、職業人生においては上司を選択することはできません。社会に出るまでは親の指導に基づいて子供は成長しますが、実社会に出ると親に変わって上司が育成してくれるのです。職業人生で成長するかしないかは上司で決まると言っても言い過ぎではないでしょう。前回述べたように若かりし頃は親でもないのになぜ厳しく叱られたり小言を言われなければならないのだと反発したのに、いずれ自分も部下を持つようになると同じ状況に対して上司に感謝の念を持つようになります。それはほかでもない上司を敬う気持ちが生じたからです。自分を一人前の社会人に育ててくれた上司への感謝の念を持つことにより会社生活はますます充実してきます。
 「上司は部下を理解するのに三年かかるが、部下は上司を理解するのに三日もあればよい」という諺(ことわざ)があります。ここでの問題は部下が上司の欠点ばかり見てしまうことです。
 孔子は上司を敬うには上司の欠点でなく優れたところを見抜くことが大切だと説いています。
(了)


論語に学ぶ人事の心得第22回 「親孝行とは病弱で親に心配をかけないことです」

孟武伯 出典:Bing

 前回同様「親孝行論」です。しかも、権力者である貴族の親子から同じ質問を受けています。
 孟武伯(もうぶはく)は前項の孟懿子(もういし)の息子で魯国三大貴族孟氏(孟孫氏)の跡取り息子、第10代当主です。興味深いのは親も子も同じ質問したのに対し回答は異なっていることです。史実では明らかになっていませんが、孟武伯(もうぶはく)については病への懸念があったかもしれません。
 孔子は親の孟懿子(もういし)には前項で述べたように「外れないこと」と含みをもたせて答えています。  
 つまり、孝行とは世の中のしきたりや慣習に背かないで先祖に尽くすことですと相手に考えさせる示唆をしたのです。
 子供の孟武伯(もうぶはく)には、親孝行とは病気になって親に心配かけないことだと答えました。
 「親より先に逝く子供ほど親不孝者はいない」というのは古(いにしえ)から現代まで続く道徳律です。病は生きとし生けるものを死に至らしめる元凶です。人の世にあっては、どんな権力者でも自己の不摂生で病にかかってしまいます。だから、不摂生をせず、親に心配かけないことが大切で、親孝行は病気にかからないことだと明示的に回答したのです。

 為政2-6「孟武伯(もうぶはく)、孝を問(と)ふ、子曰く、父母は唯(た)だ、其の疾(やまい)を之(こ)れ憂(うれ)ふ。

 「孟武伯(もうぶはく)、孝を問(と)ふ」とは孟武伯(もうぶはく)が孝行について先生に質問した。「子曰く、父母は唯(た)だ、其の疾(やまい)を之(こ)れ憂(うれ)ふ」とは先生は「両親は子供の病気だけがしんぱいごとであるので心配をかけないようにすることが孝行だと答えた。

 論語の教え23:「実の親子関係であれ、組織の上下関係であれ個人の人格をお互いに尊重することが大切だ」


孔子像 出典:Bing

 お互いに個人の人格を認め合うこと
 「親の心、子知らず」という諺(ことわざ)があります。親が子の立派な成長を願う気持ちは、なかなか子供に通じないものです。子供は親の気持ちを理解できないので自分勝手な振る舞いをするものだという意味ですが、この諺は親の一方的な解釈で親の価値観を押し付けるものであってはならないということです。子供は親が生んだことには間違いがないのですが生まれてからは別人格です。子供を私物化するものではありません。たとえ、血族であったとしても親が相互の人格を無視した言動があった時、つまり、子どもにとって、人間関係上の踏み込んではならない第一線を踏み超え、逃げ場を無くして追い詰められた時には「窮鼠猫を噛む」行動を取ります。取り返しのつかない反社会的行動を引き起すこともあります。
 これは血族社会だけの話だけではありません。企業などの利益追求社会においても全く同じ現象が生じます。上司が良かれと思って部下を厳しく叱責したり、追及したりします。現代風にいうとパワーハラスメントです。上司が部下を育てるつもりが部下の自信を喪失させ精神的病を引き起こしてしまいます。
 親子であっても、上司と部下であっても両者に共通する留意点は次の通りです。
 第一に、お互いの心の境界線を踏み越えないこと。
 第二に、お互いの人格を認め合うこと。
 が社会や組織を健全に維持発展させる黄金律だと思います。

 「子をもって知る、親の恩」と「部下をもって知る上司の恩」
 一方、「子をもって知る、親の恩」という諺もあります。子を持って知る親の恩とは、自分が親の立場になって初めて子育ての大変さがわかり、親の愛情深さやありがたさがわかるという意味です。
 自分がその立場に立って真の意味を理解できるということです。血族社会の原点を表す諺だと思います。
 企業社会においても全く同様の現象があります。「部下をもって知る上司の恩」という言葉です。部下を持ったことがない人には上司の指導や忠告はうるさいものです。「親でもないのに何であそこまで口うるさく言われなければならないのだ」と反発心を持ちます。
 ところが、管理職になって部下を持つと、上司の気持ちが不思議と理解できるようになります。上司に反発心を抱いた同じ言葉に対して「親でもないのに、自分のことを思ってよくぞここまで育ててくれた」と感謝の念を持ちます。
 そこで初めて更なる成長ができるかどうかのポイントをつかむことができるのです。心から上司の恩を感じ取った人には大いなる飛躍がもたらされます。(了)


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