論語に学ぶ人事の心得第57回 「時代の変わり目に、何に価値を置くか、よく考えなければならない」

子貢像 国立故宮博物館蔵

 本項は高弟子貢との対話です。子貢は学而編1-10にも登場する人物です。孔子より31歳年少で孔門十哲の一人です。
 弁論にすぐれた孔子門下の秀才でもありました。商才に長けた大商人で、おそらくは孔子一門の財政をも担ったとも伝えられています。その実利に価値観を置く子貢(しこう)と文化や伝統に価値観を置く孔子との対話には実に興味深いものがあります。子貢(しこう)は、吿朔(こくさく)の儀式が形骸化して、いけにえの羊を備えるなど無駄だというのです。吿朔(こくさく)の儀式は太陰暦の新月、周王(君主)から配布された暦を発表する祭礼のことを言います。この当時は、君主からもらわなくても諸侯は暦を入手することができましたので儀式そのものが軽く見られていました。子貢(しこう)には、まさに、商人としての真骨頂が出ています。それに対して孔子は確かに羊を備えるのは無駄かもしれないが、これまで続いてきた伝統の吿朔(こくさく)の儀礼が無くなることのほうが問題である。やはり、文化を大切にしなければならないと子貢を諭しています。


 八佾篇第3―17「子貢 吿朔(こくさく)の餼羊(きよう)を去らんと欲す。子曰く、賜(し)や、爾(なんじ)は其の羊(ひつじ)を愛す、我は其の禮(れい)を愛す。」

 「子貢 吿朔(こくさく)の餼羊(きよう)を去らんと欲す」とは子貢(しこう)がいけにえの羊を供える儀式を廃止しようとした。「賜(し)や、爾(なんじ)は其の羊(ひつじ)を愛す」とは(賜(し)(子貢)の本名)端木賜(たんぼくし)のこと、師は言われた。おまえはその羊を惜しむが、私は吿朔(こくさく)の餼羊(きよう)の儀礼が無くなることのほうを惜しむ。

 論語の教え57: 「時が移ろいでも、残すものと変えていくべきものを間違えてはいけない」


ヘラクレイトス像 出典:Bing

◆万物は流転する。唯一流転しないことは、万物は流転するということである。
 このタイトルにある言葉はこの世の中で変化しないものはない。いつまでも、変化しないものといえば、いつの世も「変化するということである」という意味です。この言葉を普遍的な法則としてこの世に生み出したのは孔子と同じ時代に生きた古代ギリシャの哲学者ヘラクレイトスです。
だから、変化についてゆけないものは絶滅してしまいます。
 しかしながら、本項での対話は孔子が変化に抵抗しているのではないということです。吿朔(こくさく)という文化の儀礼に対して、子貢の商人としての合理性だけで物事を判断してはならないと言っているのです。とりわけ、孔子は民にとって文化の継承の大切さを説いてきました。中国という国の起こりを示す夏国や殷国の末裔が文化を継承しなかったばかりに国が存在したのかどうか多くの人に理解されなくなってしまっていると嘆いていることを前に取り上げました。
 要するに世の中の変化は必然的です。変化を止めることはできません。しかし、後世に伝えるものと伝えなくともいいものを見極めなければならないと思います。孔子は後世の私たちに語り掛けているものはその判断を間違うなと言っているだと読み解くことができます。

◆物の見方三原則:物事を一面的でなく多面的に見る。物事を表面的でなく本質的に見る。物事を短期的に見るのではなく長期的に見る。
 私たちは目の前にある事実や現象に接したときに、どのような見方をすれば判断を間違わないかということです。「物の見方三原則」として伝えられているのがタイトルに示した言葉です。多面的に見るとは、前後左右、上下から全体像を把握する必要があるということです。
 例え話です。盲人が象の足を触って、象というのは柱のように丸いと言います。鼻を触った盲人はゴムホースのように丸くてぐにゃぐにゃしていたと言います。腹を触った盲人は天井のように平らだったと言います。全体像を見ず、部分しかわからないで判断すると、誤ってしまうというイソップ物語です。本項で孔子が子貢に伝えたかったのもこのイソップ物語だったのではないでしょうか。
 すなわち、大局的に見ないで、一面的に見て判断すると気づかないうちに誤った判断をしてしまうと言っているのだと思います。心すべきことだと思います。

◆組織にとって文化を無くすことは歴史を無くすことである。
 文化とは、人間が、共同体を形成し、安全に生きてゆくために共有する価値観だと思います。そして、文化は社会の最小単位である家族から派生し社会全体へと広がっていくものと、逆に社会から家族へと浸透してゆく価値観の相互作用で進化を続けてきました。文化を無くすことは人の営みの一部分が断絶することになります。そこから歴史の一部が切り取られることにもなります。これまでの歴史が私たちに教えるところによれば、文化が切り取られたまま時が流れることはまずありません。必ず、異文化が侵入してきます。つまりマジョリティ(征服者)がマイノリティ(被征服者)を飲み込んでしまうことになります。「飲み込まれたほう」は自分たちのこれまでの価値観を「飲み込んだほう」の価値観を強要されることになります。大変な苦痛を強いられることになります。この繰り返しが私たち人類の発展史でもあります。
 しかし、ここにきて、その反省から多様性を認めることが世界的なコンセンサスになりつつあります。征服者と被征服者の関係ではなく個々の文化を尊重し相互発展するところに真の豊かさを実現することができるという概念が全地球規模で起こって来ていることは素晴らしいことだと思います。いわゆる、全世界の各大陸に、現在なお生き続けている先住民族と言われる人たちとその文化です。かけがえのないこの地球をより豊かにするのは経済原則の豊かさだけで築きえなかった価値観を文化的豊かさで築く真の豊かさを実現できる日が来ることを願ってやみません。(了)


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