論語に学ぶ人事の心得第47回 「他から尊敬される人物は見苦しい争いごとは避けるものだ。争ったとしてもルールに則り競う程度のものだ」

 孔子は単に思想家であるばかりではなく、政治家であり、優れた武術家でもありました。
 思想家というとイメージ的には、ひ弱な文士が浮かんできますが、武術に長じていたとすると別の顔が見えてきます。
 孔子が武術家として優れていたのも魯国の優れた将軍であった父親の血を受け継いだものでしょう。孔子は体格も2メートルを超える偉丈夫であったと伝えられています。


孔子立像:出典 Bing

 孔子は六つの芸に秀でていたと言われています。礼はそのうちの一つで他にも五つがあります。書、数学、音楽、そして弓と御(ぎょ)です。
 御(ぎょ)というのは御者という言葉もある通り馬車の操縦する技術のことです。
 これまでに何度も述べてきたように孔子の生きた時代は群雄が割拠した下剋上の時代です。全国いたるところで戦乱が繰り広げられました。その戦争の時に用いられた有力な武器が弓と刀です。そして、戦士を運ぶのが馬車でした。孔子はそのいずれにも長けていたことになります。
 この時代は武術の中でも弓術が盛んでした。弓術の試合は「射礼」と称されていたように細かくルールが決められていて儀式あるいは現代風にいうとスポーツのように規則に則っとって優勝劣敗を決めるようなものでした。試合後は負けたものが罰杯を受けることが習わしになっていたようです。
 本項で取り上げているのも射礼の際の約束事にひっかけて述べています。揖讓(ゆうじょう)というのはあいさつの一種で両手を胸の前で組み合わせ上下させながら会釈し譲り合う作法です。

 八佾篇第3―7「子曰く、君子は爭(あらそ)う所無し。必ずや射(しゃ)か。揖讓(ゆうじょう)して升(のぼり)り、下り而(しこうして)飮む、其の爭(あらそい)や君子なり」先生は言われた。「君子は爭(あらそ)う所無し」とは君子は何事につけても争はない。「必ずや射(しゃ)か」とは争うとすればきっと弓の勝負ぐらいだろう。「揖讓(ゆうじょう)して升(のぼり)り下り而(しこうして)飮む」とは試合の開始前には挨拶して先を譲り合いながら正堂の階段を上り下りして試合に臨み、勝負が終われば酒を飲む。「其の爭(あらそい)や君子なり」とは争い方も君子らしく争う

 論語の教え47: 「一角(ひとかど)の優れた人はみだりに争いごとを仕掛けない。止むえず、争いに巻き込まれても徳を以て対応する」


老子像:出典Bing

◆争わずして勝つ
 このことを生涯通じて探求した二人の偉人がいます。老子と孫子です。まず、老子について紹介したいと思います。
 「善く敵に勝つ者は与にせず」と言っています。つまり、うまく敵に勝つ者は、敵と戦わないということです。さらに、「優れた戦士は怒りを表さないし、猛々しくもない」と説いています。人と争って、力ずくで相手を封じ込め、勝利を奪い取ったとしてもその反動は後になって必ず自分に返ってくるものです。力に任せて傷つけあって“勝ち”を手に入れようとするのは、「ありのままを大切にする“道”の教えに反している」と老子は戒めています。
  一方『孫子』は次のように述べています。
 孫子の兵法には、「およそ兵を用うる法は、国を全うするを上となし国を破るはこれに次ぐ。この故に、百戦百勝は善の善なるものにあらず。戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり「戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なり」と。
 これもまた「不争」を教えているのです。
 老子や孫子の教えでは、「百戦百勝よりも大事なことがある」と。
 これがつまり、はじめから「争わないこと」「戦わないこと」。両者とも、「不争」に重きを置いていたわけですね。 


孫子像:出典Bing

 現代社会でも、賢い人ほど無駄に人と争ったりしないものです。
 そんなエネルギーと暇があるなら、他にやるべきことがあるハズです。
 「いかにして、戦わずして勝つか」これを極めることができた人だけが
 本当の意味で「人の上に立つ」ことを許されるといえるのではないでしょうか。
 老子は次のような言葉で不争の極意を教えています。
 「吾不敢為主而為客」(吾敢えて主とならずして客となる)
 自分が中心となって行動しようとせず、「受け身に回れ」と言うのです。
 つまり、戦争を避けられない状況に陥ったとしても、基本的には「不争」のスタンスでいけよ、自分から攻めたりするなよ、ということです。
 あくまでも、「戦わないこと」「争わないこと」が“徳”であり“道”だと強調しているのです。

◆能ある鷹は爪を隠す
 前項の不争とは少しニュアンスが違うかもしれませんが、よく言われる格言です。
 本当に力のある人は心技体ともその力を見せびらかさないというものです。小人や臆病者ほど居丈高にふるまいます。目下に強いのに目上の人に腰砕けになる人もいます。
 外剛内柔という言葉もあります。外見はとても強そうに見えますが心が弱い人のことを言います。反面、外柔内剛という言葉があります。これは前者の反対語です。外見はとても弱々しく見えて内面の意思が強固であると人のことを言います。
 ことほど左様に人にはいろいろなタイプがありますが、できる人ほど自分のことを自慢げに人前でペラペラしゃべらないものです。



(了)


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