論語に学ぶ人事の心得第46回 「上に立つ人の礼を失する行為には勇気をもって諫言せよ」

冉有(ぜんゆう)像 故宮博物館蔵

 本項は弟子冉有(ぜんゆう)への礼に対する行動について、孔子が意見する場面です。
 まず、冉有(ぜんゆう)について紹介しておきましょう。冉有(ぜんゆう)は姓を冉(ぜん)、名は求(きゅう)、字は子有と言いました。孔子より29歳年少です。孔子からは政治の才を評価され、孔門十哲の一人となっています。季氏に仕え、その執事を務めたほか、武将としても名をはせました。孔子の遊説にも同行しましたが途中で魯に戻り、季氏に仕え、孔子の帰国を促したと伝えられています。
 次に季孫氏(きそんし)です。本編八佾(はちいつ)の冒頭にも出てきますが、季氏は確かに魯国の三大貴族の一員で位は高いのですが、君主の単なる重臣に過ぎません。それがあろうことか天子にのみ許された八佾(はちいつ)を自分の家の庭先で舞ったのです。何を勘違いしたのか、分をわきまえろと孔子は怒りをあらわにしています。
 今回も、また泰山で、天子にしか許されていない山神を祭る暴挙を行ったというのです。泰山は魯国国都・曲阜の北80kmほどに位置する聖山と言われていました。道教の聖地である五つの山(=五岳)の筆頭です。この山を祭る封禅の儀式は、天子の特権とされていました。封禅(ほうぜん)の儀式とは、帝王が天と地に王の即位を知らせ、天下が泰平であることを感謝する儀式です。
 孔子は十哲にも数えられるほどの優秀な弟子冉有(ぜんゆう)が林放(りんぽう)のような一書生に過ぎないものに比べられることに恥じ入ることがないのかと叱責をしているのです。師は筋を通せない冉有(ぜんゆう)に対して歯がゆい思いをしたのでしょう

 八佾篇第3―6「季氏(きし)泰山に旅(りょ)す。子冉有(ぜんゆう)に謂(い)ひて曰(いわ)く、女(なんじ)救(すく)ふこと能(あた)ざるか。対(こた)えて曰く、能(あた)わずと。子曰く、嗚呼(ああ)、曾(すなわち)泰山(たいざん)を林放(りんぽう)に如(し)かずと謂(い)えるか。  

 「季氏(きし)泰山に旅(りょ)す」とは季孫氏(きそんし)が泰山で山神を祭った。「子冉有(ぜんゆう)に謂(い)ひて曰(いわ)く」とは、孔子が弟子の冉有(ぜんゆう)いった。「女(なんじ)救(すく)ふこと能(あた)ざるか」とは、冉有(ぜんゆう)よ、おまえは季孫氏(きそんし)に意見を言えなかったのか?「対(こた)えて曰く、能(あた)わずと」冉有(ぜんゆう)はできませんでした答えていった。「子曰く、嗚呼(ああ)、曾(すなわち)泰山(たいざん)を林放(りんぽう)に如(し)かずと謂(い)えるか」とは そこで孔子は言った。ああ、なんとおまえは礼のすべてを知っているのに泰山(たいざん)の神について訊いた林放(りんぽう)にもおよばないと思っているのか。

 論語の教え46: 「上司といえども礼に反する行為は諫める勇気と覚悟を持て」

 ◆「義を見てなさざるは、勇なきなり」
 孔子は第二編の為政編最終項の2-26項でこの言葉を述べています。
侠(きょう)の精神は義を貫く人たちです。孔子は自分の先祖でもないのに、有力者からと言って祀るのは、有力者をおもねることで卑怯なことだと断罪しました。これこそ、義に反する行為だと厳しく批判


出典:Bing


したのです。「義(ぎ)を見て爲(な)さざるは、勇(ゆう)無き也」というのは現代の社会でも用いられ、格言として定着しています。
 社会や組織のリーダーが礼に反する行為をした時に黙って見過ごすことは、いろいろな面で悪弊をはびこらせることになります。これまでの倣いでは、徳を刻むとともに、悪弊はますます肥大化し、取り返しがつかなくなります。だから、小さい芽のうちにつまんでおくことが大切であります。今回の冉有(ぜんゆう)のように季孫氏の側近で、執事の立場にしかできない人が勇気をもって正してゆくことができなければ、ほかの誰ができるというのだと孔子は冉有(ぜんゆう)に迫っているのです。

 ◆より広い共同体感覚を持て
 本項は季孫氏をめぐる狭い共同体の中での話です。冉有(ぜんゆう)が季孫氏の執事ですから極めて強固な縦の関係で結ばれています。
 だから、冉有(ぜんゆう)は主人である季孫氏の礼に反した行為に対して何も言えなかったのです。小さい社会に閉じ込められ、自分を小さくしてしまっている冉有(ぜんゆう)に対して、それが孔子にはいかにもふがいなく映ったのでしょう。孔子なら同じ場面では、きっぱりと季孫氏に諫言しているでしょう。
 なぜ、師と弟子の間にこのような違いが出るのでしょうか?孔子は冉有(ぜんゆう)に比較してより広い共同体感覚を持っているからだと思います。より広い共同体感覚とは何か?それは季孫氏と縦に関係ではなく横の関係を意識しており、季孫氏から縦の関係を切られてもなんの問題も生じないばかりか、切られた時から季孫氏との共同体関係より、より広い共同体関係を構築する自信があるからです。人間の器の大きさを如実に示す好例といえましょう。

 ◆自己を偽り、自己矛盾に陥ることを避けよ
 「義をみてなさざる時」には、自分の弱さに対して、自己嫌悪に陥ります。自分で自分を嫌いになったら誰が自分を好きになってくれるでしょうか。常に、そのような状況を抱えることを自己矛盾に陥ると言います。
 自己矛盾に陥ることを避けるには以下の三点に留意する必要があります。
第一は常に、自らの言行を一致させることです。
   他人に厳しく、自己に甘い人は信用されません。
第二は他人の言行を変えたい時は、常に自らの言行を変えることです。
   「過去と他人は変えられない。自分と未来は変えられる」というのは真実です。
第三は常に、自己との対話を怠らないことです。
   人間は誰でも心の中に二人の自分がいます。積極的な自分と消極的な自分です。肯定的な自分と否定的な自分であることもあります。二人の自分との対話を心掛けると自分が偏っているかどうかを確認できます。
(了)


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