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論語に学ぶ人事の心得第52回 「先祖を祭るには、そこに先祖がいるように、気持ちを込めて執り行うことが大切だ」

孔子像 出典:Bing

 多くの皆様はお解りのことと思いますが神を祭るとは先祖を敬い法事をとりおこなうことです。孔子が生きた時代には、まだ、中国に仏教が伝わっておりません。古代のしきたりに沿って先祖を敬う儀式が行われていたのです。因みに仏教では先祖を敬うことを年忌と言いますね。
 ところで、孔子は祭りを行う者の心得として礼に適うことを強く意識しておりました。
 本編八佾(はちいつ)で何回も取り上げられているように分を弁(わきま)えない祭祀の行為には誰であっても孔子は厳しく批判しています。それが魯国の三桓であった季孫氏に対しても同じです。 
また、祭祀が華美に走ることに対しても、孔子は何度も批判しています。祭祀を行うことは権勢を誇ることではないからです。誠心誠意、心を込めて先祖を敬うことが祭祀の目的であることを説いたのでした。
 この時代は社会的な規範らしいものは確立されていません。時の権力者の価値観が社会的規範として流布されました。つまり王様の考えが社会のルールになっていた時代です。そのような中にあって、孔子は儒教を打ち立て、「五倫五常」を人の生き方の規範として確立しました。歴史に「たら」はないのですが、孔子がこの世にいなかったら、中国のみならず世界の歴史はすっかり変わったものになったに違いありません。改めて孔子の偉大さに思いを馳せたいと思います。

 八佾篇第3―12「祭(まつ)ること在(いま)すが如(ごと)くす。神を祭ること神在(いま)すが如くせり。子曰く、吾れ祭りに與(あず)からざれば、祭りて祭らざるが如し」

 「祭(まつ)ること在(いま)すが如(ごと)くす」とは、師は先祖を祭る際には、先祖がそこにいるようにふるまわれた。「神を祭ること神在(いま)すが如くせり」とは、神様がそこにおられるようにふるまわれた。師は言われた。「吾れ祭りに與(あず)からざれば、祭りて祭らざるが如し」とは、私は先祖を祭る行事に参加できないときは、先祖に会わなかったとうな気がしてならない。

 論語の教え52: 「心のこもらない形式的な儀式をいかに盛大に行おうとも人々を惹きつけない」

◆法人の行事や儀式は何のためにやるのか
 どんな企業や組織でも創業もしくは設立記念の行事が行われます。また、周年記念行事もあります。これらは何のために行われるのでしょうか。
 私は二つの目的があると思います。その第一はこれまで支えてくれた顧客やパートナーへの感謝の気持ちを表すためだと思います。第二はお客様やパートナーに感謝の意を表しつつ、全社員でそれを共有し、次の発展に向けて全社員とともに決意を固める場であると思います。記念行事にひっかけて商売のネタに利用している企業を見たことがあります。このような企業は自己中心的で動機が不純と言わざるをえないでしょう。誰も共感しませんし協力をしないと思われます。
 法人であれ、個人であれ感謝の気持ちを忘れたら、そこから衰退がはじまります。日本を代表するある電機メーカーの創業者が存命中に創業60周年を迎えました。たった三人で始めた町工場が60年後には10万人を擁する大企業へと発展していました。集まった7000人の経営幹部を前にして感謝の言葉を述べました。そして、腰を90度に曲げ三回も最敬礼をしたのです。参会者から万雷の拍手が沸き起こりました。


地震災害 出典:Bing

◆リーダーの最大の責務はリスクを予知することである
 「災害は忘れたころにやってくる」といったのは物理学者であり文豪でもあった寺田寅彦の言葉で
す。企業経営では災害や事故を避けることはできません。寺田の言葉はどれだけ悲惨な災害に遭遇しても、人は忘れ去って、次の災害に会った時の備えを怠ってしまいます。それに対する警告だと思います。どんな組織でも災害や事故で犠牲になった人々を手厚く葬ります。記念碑を創り、多くの人々の心に深く刻まれるように儀式も行われます。それは災害や事故を風化させないためです。そして、二度と同じ犠牲を出さないために備えるるのです。
 以前にも取り上げたことのあるアメリカの著名な経営学者ピーター・F・ドラッカーは「リーダーの最大の責務はリスクを予知することである」と言っています。そして、「それはリスクを避けるためでなく、備えるためである」とも言っています。
 経営者は社会から人とモノとお金を預かり経営資産として運用を任されています。これらを守り切ることこそ経営者の責任であるというのです。ドラッカーは企業の目的は「顧客を創造することだ」と提唱して利益を上げるために血眼になっている世界中の経営者に目的をはき違えるなと覚醒させました。同じように社会から預かった経営資産を守ることが経営者の責任であると喝破したのも心に沁みる卓見の一つだと思います。

◆功労者を顕彰するする意味は?
 国家であれ、企業であれ多大な貢献をした人に感謝の気持ちを込めて栄誉を称えます。その意味するところは何でしょうか?
 歴史上、どの国においても神格化された軍人は何人も出ています。それは軍国主義を鼓舞するために行われました。それは必ずしも褒められたことではありません。
 本来は世界最高の権威を持っているノーベル賞に代表されるように人類の進歩に貢献した人々を顕彰すべきものです。国家の政策とはいえ、人を数多く殺した人を顕彰するよりは人の命を数多く救った人を顕彰することに異議ある人は誰もいないはずです。
 冒頭に述べたようにそれぞれの国には顕彰制度がありますが世界のすべての国で人を殺すことにより顕彰されることのない世界が訪れることを願わずにはいられません。(了)


論語に学ぶ人事の心得第51回 「微妙な問題に対しては、すべて本音で応えるのではなく、さらりと躱(かわ)す術(すべ)を持つ」

孔子像 出典:Bing

 本項は前項からの続きです。前項で述べた様に、孔子は魯の国の禘(てい)の大祭に疑念がありました。だから、魂を呼び込む灌(かん)の儀式が終わると後は参加したくないと言っているのです。
なぜ、孔子がこのような大祭に疑念を抱いたのか明確な理由が述べられていません。そのわけを究明することがこのブログの目的ではありませんので話を前に進めたいと思います。
 しかし、本項ではある人の質問に対してはあっさりと「知らない」と答えています。孔子は大抵のことに対してはその質問の意図を確かめるなどして、質問者の意向に沿った答えや示唆を与えています。常にまじめな対応をしてきました。この度のやり取りを見ていますと、そっけないのです。その裏にあるものは何だろうと思いたくなります。
 本項の質問に対しては、質問の意図も確認せず、質問に対して正面から答えていません。  
つまり、孔子らしくなく本音を明らかにしていないのです。孔子は正直に本当のことを言えば社会に与える影響が大きすぎると考えたかもしれません。

 八佾篇第3―11「或(ある)ひと禘(てい)の說(せつ)を問ふ。子曰(いわ)く、知らざる也(なり)。其の說(せつ)を知る者の天下(てんか)に於けるや、其(そ)れ諸(こ)れ斯(こ)に示(み)が如(ごと)きか」と。其の掌(たなごころ)を指(さ)す。」

 「或(ある)ひと禘(てい)の說(せつ)を問ふ」とはある人が孔子に禘(てい)つまり君主が先祖を祭る大祭の意味などについて説明を求めた。「子曰(いわ)く、知らざる也(なり))とは師は知りませんと答えた。「其の說(せつ)を知る者の天下(てんか)に於けるや、其(そ)れ諸(こ)れ斯(こ)に示(み)が如(ごと)きか」」とはその意味を分かる人は天下のことを何もかも手のひらにまとめてはっきり見ることができるでしょう。「其の掌(たなごころ)を指(さ)す」とは自分の手のひらを指さした。


 論語の教え51: 「この世の中、すべて正論が通用するとは限らない」

 ◆信頼関係を築くには本音が不可欠、そうでなければ建前を押し通せ。
 「信頼関係」とはお互いに信じ、頼りあえる間柄のことをいいます。それには何事も隠さず本当のことが言い合える間柄でもあります。また、お互いに相手から欠点や弱みを指摘されてもいちいち腹を立てないことです。だから、本当のことがお互い言えます。言い換えれば、ほんとうのことを言い合える仲が本音を言い合える関係と置き換えられます。


出典:Bing

 また、信頼関係は、どんな人間関係でも築くことができます。基本は家族関係になりますが、会社の同僚や上司の信頼関係を育むことができます。私はむしろ会社の中での信頼関係を築くことが家族関係以上に大切なことだと思っています。会社では、血族的なつながりではありませんが、目的や目標を共有する共同体に所属するからです。
 良好な信頼関係があれば、どんな良いことがあるのでしょうか。たとえば、職場の同僚や上司と信頼関係が築けていれば、士気の高い組織や職場が築けるでしょうし、お互いに励まし合うことで、きっといい成果があげられると思います。
 本音が言い合える関係でなければ信頼関係があるとは言えません。ある会社では本音で言い合える関係を創ろうと上司からの呼びかけがあり、それを信じた社員が本音で上司に意見を言ったところ左遷されてしまったという話を聞いたことがあります。本音で話そうといったことが実は建前であったという笑うに笑えない笑い話です。信頼関係を築くには本音が大切だということを無防備に信じると取り返しのつかない事態を呼び込みますので状況をしっかりと見極めましょう・

 ◆頭も身のこなしも柔らかくあれ。
 人間はリラックスすればするほど身も心も柔らかくなります。逆に、緊張すればするほど固くなります。例えば、リラックスして水に体を委ねると人間の身体は浮きますので伸び伸びと水泳を楽しむことができます。一方、泳げない人は、緊張して体が硬くなりますので同じように水に浮こうとしても、水に飲み込まれてしまいます。怖くなり身体をバタバタさせるとさらに深みに引きずり込まれてしまいます。
 水の中ばかりではありません。あなたは、ある重要な会議で改善策を提案することになりました。会議メンバーは全員、会社の経営陣です。いわゆる強面(こわもて)する面々が睨(にら)んでいる前でプレゼンすることになりました。想像するだけで緊張が増してきます。プレゼンが始まりました。心臓の鼓動がパクパクと音を立てているように感じられます。緊張が頂点に達しました。声もうわずっています。準備した時と全く異なる状況に追い込まれてしまいます。実際には準備した内容の半分も出しきれません。こんな経験をしたのは私だけではないはずです。事程左様に人は緊張すると身体が硬くなります。身体だけではありません。頭も回転が悪くなります。ひどい場合は思考がストップするいわゆるフリーズ状態になってしまうこともあります。リラックスするにはどうすべきでしょうか。何回も何回も練習を重ね自信のような気持ちがわいてくる時があります。そうなればしめたものです。心にリラックス状態が芽生えると身体も頭も柔らかくなります。

 ◆嘘も方便、時には許されることもある。
 嘘をつくことは罪悪ですが、目的を果たすためには嘘が必要な場合もあるということです。この世の中すべて真実だけが通用するとは限りません。例えば、余命いくばくもない患者に対して医師は「あなたの命はあと一か月しか持ちません」とは言いません。当然ながら、家族には本当のことを告げるでしょう。患者本人には「大丈夫ですよ、頑張ってくださいね」と激励します。この状況下で、医師に「嘘を言ってはいけない」とはだれも言いません。
 私たちの身の回りには「許されるうそ」と「許されない嘘」が飛び回っているように思います。
許される嘘はある意味人間関係の潤滑油のような役割を果たしていることもあります。夫婦間でも親子間でもどちらからでもうそが日常的に発せられています。会社の中の人間関係でもプライベートな人間関係で生じる「許されるうそ」が氾濫していると思います。
 採用時の心理学テストに「私は今までに嘘をついたことがない」という質問があります。この質問に対して皆さんならどう答えますか。「はい」か「いいえ」で回答します。「はい」と答えた人はうそを言っていると思われます。「いいえ」と答えた人が真実を述べていることになります。これは「ライスコア」といって虚偽癖があるかどうかを見抜くための尺度になります。大抵の心理テストにはライスコアが10項目挿入されています。ライスコアの高い人は極力採用しないほうがいいことになっています。

(了)


論語に学ぶ人事の心得第50回 「たとえ君主の先祖を祭る儀式でも、礼を失した儀式は下手な芝居を見るようで見る気にならない」

孔子像 出典:Bing

 本項は非常に短い文章です。短いにも関(かか)わらず、孔子は頑(かたく)な的ともいうべき強い態度で禘(てい)の大祭に参加することを拒否しています。なぜ、そこまでのこだわりがあるのか、その理由が全く書かれていません。これまで孔子がいろいろな場面で示してきた対応から読み解く必要がありそうです。
 孔子は誰であっても礼を失する行為には厳しく糾弾(きゅうだん)しています。この編のタイトルにも なった八佾(はちいつ)も君主にしか許されていない八佾(はちいつ)の舞を三桓の筆頭であった季孫氏が自邸で舞をとり行なったことにも大きな憤りと落胆の気持ちを示しています。要するに分を弁(わきま)えよということです。
 「あなたは重い立場の貴族ですがあくまでも臣下です」というわけです。
 本項には、記述はないのですが、これまでに、禘(てい)の大祭の時に孔子にとっては我慢のできない場面に遭遇したのだと思われます。
 禘(てい)の大祭とは君主が先祖を祭る魂を呼び込むための儀式です。その儀式では、最も重要な部分は、灌(かん)といって酒を、わらに濯(そそ)ぎかけ、先祖の魂を招く行事です。藁(わら)が酒を吸い込む様子が、魂が酒を享受したように見えます。
 それが済んでから後は、見る気がしないと孔子は言っているのです。それで、も明確な理由はみえません。一説によると先祖の位牌を祭る順序に間違いがあったとのことですがこのような重要な儀式に先祖の位牌を間違って並べるでしょうか。その背景には、込み入った事情がありそうです。
 
 八佾篇第3―10「子曰(いわ)く、禘(てい)既(すで)に灌(かん)して自(よ)り往(のち)は、吾(われ)之(こ)れを觀(み)ることを欲せず」

 師は言われた。「禘(てい)既(すで)に灌(かん)して自(よ)り往(のち)は」とは「禘(てい)の大祭でかぐわしい酒を注ぐ儀式から以降は、「吾(われ)之(こ)れを觀(み)ることを欲せず」とは私は見る気がしない

 論語の教え50: 「先人を敬うのは単に儀式をとり行うことでなく、心から敬うことがより大切だ」


出典:Bing

◆すべからく手段と目的をはき違えるな
 かつて、若かりし頃に企業の目的は「顧客の創造だ」と書かれた本を読んで深く感銘を受けたことがあります。ドラッカーというアメリカの著名な経営学者が著した「現代の経営」という名前の本でした。  
 それまでは企業の目的は利益を追求することだと上司や先輩から教わってきましたのでにわかに信じがたい思いもしました。その一方で、目からうろこが落ちた思いもしました。
 その企業では社会に奉仕するのがわが社の使命であると宣言していました。これはあくまでも建前であり、社内での集団規範はムキムキの利益追求主義の会社でした。
 企業の目的は「顧客の創造である」というのと「利益の追求である」というのでは取るべき手段が大きく異なります。もし、利益を追求することが目的だとした場合には利益を出すためにあらゆる方法を用いて経費を削減します。社員を削減して利益を出そうとするかもしれません。また、将来の成長やそれこそ収益を生み出すかもしれない投資をしなくなるかもしれません。このような経営がまかり通ったとしたらそれこそ目的と手段をはき違えていると言えるでしょう。
 目的とは経営者が最終的に実現しなければならないことであり、手段とはその目的を実現するためのとるべき行動のことです。初めから経費削減ばかり取り組んで利益を出そうとすることは手段と目的をはき違えていると言えるでしょう。本項の禘(てい)の大祭でいえば、とにかく儀式を行うことが目的になって、心のこもらない儀式を見ても何の意味があるのでしょうか。それこそ下手な芝居を見るようなものです。
 先祖を敬うことが軽視されたとしたら誰だって、孔子の気持ちのように見たくもなくなるでしょう。

◆何事も「心」がなく形骸化することを排除せよ
 何事も当初は目的に適った形で行われます。しかし、残念ながら時の流れとともに慣例化してしまいます。いわゆるマンネリ化です。ただ、だれも何も考えなく、何となくとり行われてしまうのです。
 創業者が命を懸けて作り上げた事業や、それにまつわる社是社訓も創業者が現役で活躍中は厳然と生き続けます。しかし、現役を退き、あるいは鬼籍に入ったりしますとだんだんと創業時代の緊張感が薄れてきます。朝礼や会議で唱和していた社是・社訓も念仏を唱えているのと同じような状況になります。
 社員は毎朝、唱和しているのですが、内容が全く分からないままに唱えているだけなのです。経営者も大事なことを伝えようとしません。
 さらに悪いことにこのような企業では、毎日唱えていることと逆の行動が習慣化してしまっていることがあります。こうなってしまったら、企業は没落の一途をたどります。社員は正しいこと(あるいは正しいと思っている)をしていのになぜ業績や処遇が悪化する一方なのだろうと思っているうちに解雇が始まるのです。どんなに優れた制度や仕組みでも心のこもった運用ができなければ企業をあらぬ方向へと導いてしまいます。最終的にはやはり「人」です。人事が公正に行われなければ必ず企業は傾きます。これまでに、歴史が「いや」というほどこのことを見せつけています。悲しいことに、未だにその歴史は繰り返されています。(了)


論語に学ぶ人事の心得第49回 「歴史は実録など客観的で確実な証拠が伝承されていて初めて史実となる」

子張(しちょう)像 出典:Bing

 本項は為政編2-23子張(しちょう)との対話で孔子が歴史観を語っていることの延長線上にあります。そこで孔子は何を語っていたのでしょうか?子張(しちょう)は孔子に対して「十代先の王朝を予知することが可能でしょうか」と質問しました。すると孔子は次のように答えます。
 「殷(いん)王朝は夏(か)王朝の礼法制度を受け継いでいるから察知できるはずだ。
 ゆえに、例え百代先でもその王朝を察知できるはずだ」(詳細は為政編2-23参照)と述べているのです。
 本項ではこの回答を覆されたわけではないのですが、証拠が十分残されていないので自説を実証することができないことを憂いています。
 因みに夏(か)王朝は中国で最古の王朝です。殷(いん)王朝は実在が確認できる最後の王朝です。その両方とも末裔国に礼法が伝承されていないために、孔子自身は実証できてもほかの人ができるだろうかとその客観性に疑問を呈しています。


 八佾篇第3―9「子曰(いわ)く、夏(か)の礼(れい)は吾(わ)れ能(よく)く之(これ)を言えども、杞(き)は徵(しるし)とするに足らざる也(なり)。殷(いん)の礼(れい)は吾(わ)れ能(よ)く之(これ)を言えども、宋(そう)は徵(しるし)とするに足らざる也(なり)。文獻(ぶんけん)足(たら)ざるが故(ゆえ)也(なり)。足らば則(すなわ)ち吾(わ)れ之(これ)を徵(しるし)とせん」
 師は言われた。「夏(か)の禮(れい)は吾(わ)れ能(よく)く之(これ)を言えども」とは「夏(か)王朝の礼法制度を私は説明できるけれど。「杞(き)は徵(しるし)とするに足らざる也(なり)」とは夏王朝の末裔の国である杞(き)国にはそれを実証するものが不足している。「殷(いん)の礼(れい)は吾(わ)れ能(よ)く之(これ)を言えども」とは殷(いん)王朝の礼法制度を私は説明できるけれども
 「宋(そう)は徵(しるし)とするに足らざる也(なり)」とは殷(いん)王朝の子孫が住んでいる宋(そう)国にはそれを実証する記録や賢者が足りない。「足らば則(すなわ)ち吾(わ)れ之(これ)を徵(しるし)とせん」とはそれらが十分に存在していたら私は私の説を説明できるのだが。

 論語の教え49: 「伝統とは単に長く継続された結果でなく、ある意図のもとに作り上げられた創造物である」

◆リーダーは良き企業文化の伝道者たれ


孔子廟 出典:Bing


 ミレニアムレベルの文化には、必ず、その支柱となる伝承ツールが存在します。例えば、宗教でいえばキリスト教には聖書があり、イスラム教にはコーランがあります。仏教には経典があります。おそらくどの宗教でも伝承されている教義があると思われます。孔子の開いた儒教にも教義がありますし、論語のように後年弟子によって編纂された論語もります。物理的な伝承物としてはキリスト教には教会があり、イスラム教にはモスクがあり、仏教にはお寺があります。また、それぞれの宗教には聖職者もいます。要するに自然と続いてきたのではなく、伝道者の命を懸けた努力により松明の火が受け継がれてきたのです。
 企業はゴーイングコンサーンだと言われます。要するに企業は一時的存在ではなく、長く継続することを前提に設立されるということです。従って、企業の状況を記録したものが、長期的に保存されることになります。しかしながら、企業を継続させることは並大抵の努力では実現できません。これまでにも、多くの企業が雨後の筍のごとく設立されていますが、時の経過とともに消えていきます。天才的発明家が創業した企業でも継続することは至難なことです。とりわけ、事業の後継時に曲がり角が来ていることは歴史が示す通りです。もちろん、事業がうまく継承されていく企業も多くあります。継承されない企業と継承される企業にはどんな違いがあるのでしょうか。
 私は継続する企業には組織の隅々にまで浸透した企業文化が継承されているからだと思います。企業文化というと空気のような存在ですからよくわからないと思われるかもしれません。しかし、前段で述べました通り企業文化の伝承ツールを整えてあらゆる機会を利用して浸透させてゆきます。その最前線で率先実行するのがリーダーの使命になります。

◆伝統を継承するには「変えていいこと」と「変えてはならないこと」を区別せよ
 ご承知の通り「企業は変化即応業である」と言われます。この意味するところは企業のあらゆるものは環境の変化により陳腐化するので変化を嗅ぎ分け環境適応させなければならないということです。「成功は失敗の母」ともいわれます。これは成功したという同じ理由で失敗するという教訓です。
 企業には、毎日、陳腐化の波が押し寄せています。とりわけ、顧客価値を生み出す基幹プロセスの陳腐化を発見し未然に防止することは企業存続の生命線です。
 ここで、大切なことは「不易と流行」ということばで示されていますように、環境がどんなに変化しても「変えてはならないもの」と「変化に合わせて変えてゆかなければならないものが存在すということ」です。企業のリーダーは日々陳腐化する経営資源を注意深く観察し、自社の何をグレードアップすべきかを決断することが最重要な任務であることを改めて自覚することが大切だと思います。
(了)


論語に学ぶ人事の心得第48回 「師に問題意識をぶつけて対話を触媒にして、自分の見識を深める」

孔子と弟子との対話 出典:Bing

 本項は愛弟子「子夏(しか)」との対話です。「子夏(しか)」は学而編1-7で取り上げられていますが、再度その人となりを紹介しておきます。
 子夏は学而1-3に登場する曽子と同世代の人で孔門十哲の一人です。孔子より44歳若く、子夏は字、姓は卜(ぼく)、名は商(しょう)と言いました。 
 師をうならせるほどの文才の持ち主だったと言われています。
 孔門十哲とは孔子の高弟には70名ほどの秀才がいましたが、その中でとりわけ優れた弟子の十名を指します。これからもこの論語にしばしば登場する人たちです。
 顔回(がんかい)、閔子騫(びんしけん)、冉泊牛(ぜんはくぎゅう)、仲弓(ちゅうきゅう)、宰我(さいが)、子貢(しこう)、冉有(ぜんゆう)、子路(しろ)、子游(しゆう)、子夏(しか)の十名です。
 
 本項の対話でも子夏(しか)は師に質問を投げかけながら、自己の見識を深めようとしています。そして、師の回答に自分の意見を加えて思考することで、より深い知見を体得する姿勢が孔子の望むところです。
 それらを通じて、孔子自身も弟子、子夏(しか)から啓発されることをとても喜んでいます。孔子の弟子を育成する方針は、単に知識を授けることでなく思考力を高め、思索して実践につなげることでした。 
 その意味で今回の対話は、現代に生きる私たちにも孔子の喜びようが見えるようです。

 八佾篇第3―8「子夏(しか)問いて曰(いわ)く、巧笑倩(こうしょうせん)たり、美目盼(びもくはん)たり、素(そ)をもって絢(あや)をなすとは、何の謂(いい)ぞや。子曰(いわ)く、繪(え)の事は素(しろ)きを後にす。曰く、禮(れい)は後(のち)か。子曰(いわ)く、予(わ)れを起(おこ)す者は商(しょう)なり、始めて与(とも)に詩を言ふべきのみと」

 「子夏(しか)問いて曰(いわ)く」が子夏(しか)とは子夏(しか)が訊ねた。「巧笑倩(こうしょうせん)たり、美目盼(びもくはん)たり、素(そ)をもって絢(あや)をなすとは、何の謂(いい)ぞや」とはにっこり笑うとえくぼがくっきり、つぶらな瞳はぱっちりと、色の白さは美しさを際立たせるという歌があるがどういう意味ですかと師に尋ねた。。「絵というものは白色を最後に加えるものだ。「曰く、禮(れい)は後(のち)か」とは子夏(しか)は言った。礼が人生の最後の仕上げということですか?「子曰(いわ)く、予(わ)れを起(おこ)す者は商(しょう)なり、始めて与(とも)に詩を言うべきのみと」とは師は答えた。
 「私を触発(しょくはつ)してくれるのは商(しょう:子夏の本名)だけだ。お前とこそ一緒に詩の話ができるというものだ

 論語の教え48: 「人は躍動的な対話で、断片的な情報を見えざる糸でつなぎ、アイデアを泉のごとく湧き出させる」

◆上司を使いこなす部下になれ
 そんなことができるのかと思われるかもしれません。しかしながら、能力の高い人は上司をまるで自分の部下のように使いこなしています。上司に、あらゆる場面で質問を投げかけ、上司の意見を求めます。上司に質問することを通じて回答を求めているばかりではありません。自分の見解が客観的に見て正しいかどうかの確認をしています。上司も、また質問されるとうれしいので対話がはずみます。部下に回答したことが正しかったかどうか確認するために改めて調べなおすこともあります。さらに、上司もまた他の専門家と対話して知見を深めていきます。いわゆる「知的探求の連鎖」が始まります。この「知的探求の連鎖」はいいことずくめです。まず、上司と部下の風通しがよくなります。上司と部下の信頼関係も深まります。そして、その結果、上司と部下は深い絆で結ばれます。二人の間にラポート(心と心の懸け橋)がかかるという究極の人間関係が形成されるのです。ラポートがかかれば、組織は活力を持ちます。最終的には、結果として業容発展につながります。

◆常に何事も、問題意識をもって観察せよ
 断片的にせよ、系統だっているにせよ、問題意識があれば情報は集まります。それはまるで磁石が鉄くずを引き付けるような様相を呈します。問題意識がなければどんなに情報が有り余るほど飛び交っていても、情報が氾濫していても捉えることができません。心に磁石を持たない人には大切な情報はすべて通り過ぎてしまいます。能力の高い人は問題意識を必ず持って世の中を観察しています。この問題意識の深さが収集する情報の質に直結しています。


出典:Bing

 質の高い情報を入手しようと思うなら問題意識を研ぎ澄ますことです。
 では問題意識とは何かを述べたいと思います。初めにお断りしておきたいのは、問題意識はある特定の人にのみ備わった資質ではないということです。すべての人に神が平等に与えた資質です。
まず、問題とは何かを考えてみましょう。問題とは目標と現状のギャップです。そして、そのギャップは埋めなければならないものです。私たちは誰でも、公的にも私的にも必ず目標と現状があります。同じようにそれは埋める必要があります。問題意識とは自分の目標と現状のギャップを埋めようと常に意識していることを言います。情報が集まらない人、問題意識が希薄な人は自分の目標と現状のギャップを認識することから始めてください。

◆躍動的な対話こそ問題解決の近道
 困難に直面した時に、一人で考え込むことほど時間の無駄で無意味なことはありません。困ったら一人で考え込むなと言いたいのです。どんな人でも一人の力は複数の人の英知の結集には負けます。だから私たちは組織を作り、集団のチームワークで平凡が非凡へと脱皮できるのです。これには前提条件があります。自然人には血液が全身に酸素をめぐらすように組織や集団でも隅々に酸素を送り込む状況を作り出すことが必要です。それはとりもなおさず個人同士の対話を活発にすることであり、報連相により組織の血液である情報を共有することにはかなりません。私たちは誰でも一人で悶々としていたことが対話で断片的な情報がまるで命の糸で結ばれたように生き生きと活動を始める経験を持っています。
(了)


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