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論語に学ぶ人事の心得第42回 「リーダーが力を弱めた時の後継者のありようが組織の将来を決める」

孔子立像 出典:Bing

 孔子は、前稿と同様に臣下に過ぎない季孫氏(きそんし)、孟孫氏(もうそんし)、叔孫氏(しゅくそんし)の三桓(さんかん)の分を弁えない振る舞いに苦言を呈しています。魯国の天子が武力、財力、民衆からの信頼も薄いことに付け込んで、まるで自分が天子になったように振る舞うのはあまりにも礼を逸した行動ではないのかと戒めているのです。魯国のような小国と言えども、天子という最高の権力者が統治力を無くすると臣下は長年の伝統をも踏みにじった行為をしてしまうのでしょう。魯国に暗雲が垂れ始めています。孔子は今後魯国をどうガバナンスしてゆくのでしょうか?
 皆さんとともにその行く末を見守りたいと思います。

 八佾3-2「三家者(さんかしゃ)、雍(よう)を以って徹す。子曰く、「相(たす)くるは維(こ)れ、辟公(へきこう)、天子(てんし)穆穆(ぼくぼく)と。』奚(なんぞ)三家(さんか)の堂にとらん」

 「三家者(さんかしゃ)」とは季孫氏(きそんし)、孟孫氏(もうそんし)、叔孫氏(しゅくそんし)の魯国の三貴族のこと。三桓ともいう。「雍(よう)を以って徹す」とは周王朝の天子の祭祀の歌を演奏させて祭祀をお開きとした。先生は言われた。辟公(へきこう)とはこの御三家のこと。祭祀の際には、手伝うのが諸侯である三桓で、天子がご機嫌麗しいとあるのに、どうしてそれを三桓の正堂で演奏するのか

 論語の教え42: 「公に奉仕するのではなく、私服を肥やすことに執心する者に将来を預けてはならない」


信頼関係 出典:BING

 命運をわけた二人の経営者
 経営者の実際にあった話です。仮に、その会社をA社とB社にしましょう。二人のトップはライバル会社でありましたが、お互いの心が通い合うようになります。将来のことを考えて二社を合併させるところまで意気投合しました。両者とも社内の反対を押し切って実際に合併ま、る手続きに入ったその時に、B社の社長は心筋梗塞で急逝したのです。享年43でした。好事魔多しとはこのようなことを言うのでしょうか。突然、リーダーを亡くしたB社の社員は動揺しました。創業者でワンマン経営であったB社の後継者は難航しました。結局、妻で監査役であった全社長夫人が後継者となることが決まりました。
 悪いことが重なるもので、合併のための財務諸表をまとめたところ、債務超過に陥っていることが判明したのです。亡くなった社長のみがこの事実を知っていました。いわゆる、粉飾決算をしていました。

 私財を投げ打って危機を乗り切る気概
 そこで、困ったのはA社です。A社は堅実経営の会社でした。絵に描いたように、成長性、安全性、収益性、生産性共にバランスの取れた経営をしていました。A社は今後のB社との関係をどうすべきかの決断を迫られたのです。B社との話をご和算にするか、B社を救うかの選択に迫られたのです。A社は前者を選択すればB社の将来は全くありません。結局、A社の社長は後者を選択しました。亡くなったB社社長との生前共有し合った両者の未来のためにも、そして、B社の社員を含む関係者の将来を考え、会社を維持継続することを決断しました。しかも、社長個人の私財でB社の債務超過を解消し、一年待って、両社はめでたく合併したのです。
合併後の会社は極めて順調に収益を回復し優良企業としての地歩を築きました。

 人は何に動機付けられるか
 ことの是非はともかく、人はお金に動機付けられるタイプとやりがいなどの精神的要素に動機付けられるタイプの二つに分かれるようです。それぞれ豊かさの価値概念を経済的側面に置くのか、あるいは、精神的側面に置くのかのどちらに置くのかということになります。誰だって両方の価値観を持っていると言われるかもしれません。確かにその面は否めませんが刑法に触れる行為をしてまで、金に執着するレベルとなると多くの人はそこまで執着する気持ちは持っていないというのではないでしょうか。かつて、アメリカの著名な経営学者P・F・ドラッカーは企業の目的は「顧客の創造である」と唱えました。これまでは「企業の目的は利潤の追求である」というのが常識だっただけに論争が巻き起こりました。両方とも同じことを言っているのだとか両方とも裏表のことを言っているのだとか評論家のような解説が実業界でももてはやされたことを思い出します。私は伝統的な定義よりドラッカーの主張に共鳴するところが大です。皆様は如何でしょうか。
 企業経営者は資本家ではありません。資本つまりお金に関心を持つ前に顧客に関心を持っているとお金は後からついてくるように思われます。


(了)


論語に学ぶ人事の心得第41回 「あなたはいつ王様になったのだ。世間は笑っているぞ」

八佾の舞 出典:Baido

 いよいよ、本稿から第三篇「八佾」が始まります。八佾(はちいつ)とは一列八人の舞い手が八列計六十四人で舞う天子のみに許された祖先を祀るための舞です。季氏は確かに魯国の三大貴族の一員で位は高いのですが、君主の単なる重臣に過ぎません。それがあろうことか天子にのみ許された八佾を自分の家の庭先で舞ったのです。何を勘違いしたのか、分をわきまえろと怒りをあらわにしたのが本稿です。
 現代社会に住む私たちにはどれだけ礼を失しているのか実感がわかないのですが、孔子が怒りをあらわにしているところを見るとよほどのことだったのでしょう。この季氏一族だけでなく、ほかの貴族の振る舞いに対しても孔子の憤りが頂点にたしたことは何度もありました。

 為政3-1「孔子(こうし)季氏(きし)を謂う。八佾(はちいつ)を庭に舞ふ、是れを忍ぶ可(べ)くんば、孰(いずれ)をか忍ぶ可からざらん」

 「孔子(こうし)季氏(きし)を謂う」とは孔子が季氏(きし)を批評された。「八佾(はちいつ)を庭に舞ふ」とは八佾(はちいつ)を自分の家の庭先で舞わすとは、「是れを忍ぶ可(べ)くんば、孰(いずれ)をか忍ぶ可(べ)からざらん」とはこれを我慢できるなら世の中に我慢できないことはない。

 論語の教え41: 「社会から尊敬されようと思うなら身の程を弁(わきま)えた振る舞いをせよ」地位が高いほど行動を弁(わきま)えよ
 西洋の王家や帰属にはノーブレス オブリージュという社会規範があることを以前に取り上げました。これは、身分の高い者はそれに応じて果たさねばならぬ社会的責任と義務があるという、欧米社会における基本的な道徳観です。もとはフランスのことわざで「貴族たるもの、身分にふさわしい振る舞いをしなければならぬ」の意味があります。
 洋の東西を問わず当てはまるものと思われます。これらに加え、孔子は臣下としての節度をわきまえなさいと言っているのだと思われます。

 地位が高いほど静かな大衆(サイレント・マジョリティ)の声に耳を傾けよ
 何も言わないからと言って意見がないということでは全くありません。よく、無関心層ということばが選挙のたびにジャーナリステックに叫ばれます。これはメディアが自分たちで多くの人の意識を分析できないことを言っているともいえます。政治に関心がないとか、選挙に関心がないと言っていますがどこにも証拠がありません。私は、関心のない人は誰もいないと思います。聞き分ける耳を持たない人や、無視してしまう人が増えていることこそ問題があるのではないでしょうか。静かに世の中を冷徹に見ている人の声を聞き分けられる人が政治であれ、経済であれ、これからの社会のリーダーになれる資格を有するのだと思われます。 


 この世の中の出来事は必ず誰かかが見ている
 誰にもわからないから好き勝手なことをしてしまうことがあります。その最たるものは汚職です。誰にも見られていないからと言って自分に有利に動いてもらうために権力者に近づきます。そして、誰も見ていないからと言って金品の受け渡しをします。しかし、必ず、不思議なことに発覚します。これまでに何十万人百万人という人が自分の人生を棒にしました。それでも、今なおかつ汚職は行われています。
 これも戦争と同じように人類の文明が生じてから今日まで飽きることなく何度も繰り返されてきた愚かな犯罪行為です。高い地位に就いた人には黒い影が忍び寄っていることを常に自覚する必要がありそうです。(了)


論語に学ぶ人事の心得 第二篇「為政編の総まとめ」

 為政編は「リーダーは北極星になれ」という徳を積むことの大切さを説くことから始まり、「義を見てせざるは、勇なきなり」という孔子らしい実践行動を提唱することで終わります。
本編では政(まつりごと)について帝王として、実権者としての心構えを余すところなく語っていますが、政治に基本についても対話した相手の地位や責任に応じた回答をしています。

 孔子は人材育成について以下のような教えを説いています。
 孔子の人材育成の基本

          「自ら考え自ら行実行する人づくり」

 そのためにどうしたのでしょうか?
 第一は、「三者三様の教え」です。
 個人ごとに指導の仕方を変えます。人を見てその人に合った指導をしました。同じ質問をされても同じことを回答していません。その人の性格や能力に応じた指導方法を選択したのです。

 第二は、「正解を導き出す思考過程」の教えです。
 質問されたときにすべての正解を教えず、考えさせる示唆(ヒント)を与える回答をしています。孟懿子(もういし)のような権力者には孝を問われて「外れないことだ」と相手に考えさせるとうに答えています。また、その子孟武伯には病にかかって親に心配かけないことが孝行だと回答しています。

 第三は、「常に事実を検証すること」の教えです。
 学んだことは「鵜呑みにせず必ず調査分析して確認しなさい」そして、必ず自分の意見を添えて納得して習得しなさいというものでした。要するに、学ぶことは知識そのものを増やすことが目的でなく学んだ知識をよく思索して実践することが大切であるというものです。

 論語の教え17:『北極星のように輝く、「徳」を積んだ指導者には、礼をもって人々は従う』

 教え1.上に立つ指導者は人々をリードする前に自らの徳を磨け、そうすれば人々は黙って従う。
 孔子が弟子に対して一貫して求め続けたのは指導者である前に求道者であれということでした。そして、求道者として何を追求するのか?それが徳を体得することでした。
 また、徳は生まれながらにして特定の人に備わっているのではなく誰にでも潜在的に備わっていて、毎日の精進によって顕在化してくることを説いたのです。孔子は自らの体験をもとにこの考えに昇華させたのではないかと思われます。
 教え2.組織が健全かどうかは指導者次第である。
 組織の健全度とは何でしょうか? 私は「組織の健全度とは組織の変化適応力だ」と思います。
なぜなら、人も組織も変化に適応できなければ衰退しやがては絶滅してしまうからです。まさに太古の昔から地球を支配してきた適者生存の法則にしたがいます。
 進化論のダーウィンの言葉に「最も強いものが生き残るのではなく、最も賢いものが生き延びるのでもない。 唯一生き残ることが出来るのは変化できる者である」と述べています。
変化適応には三つの要素があります。それは変化への感受性、変化への受容性、変化への柔軟性です。
 変化への感受性とは小さな変化も見逃さないことです。変化への受容性とは変化を各個人がばらばらに認識するのではなく組織として受け止め、変化を共有することです。そして、最後の三つめは共有した変化にたいして柔軟に、かつ、ばらばらでなく組織だって変化していくことです。この三つの要素に対して影響力を持つキーパーソンがいます。お解りだと思います。そうです。組織を率いるリーダーです。この三つの要素の一つでも欠けるリーダーがいたらメンバーがどんなに優れていたとしてもその組織を救うことができません。一時的に活力を持ちますがやがて消え去ります。

 論語の教え18:『私たちが真に学ばなければならないのは純粋に善良な気持ちを持ち続けることだ』―純粋に善良な気持ちを持ち続けることは、邪(よこしま)を近づけないことを意味している。
 
 邪を排除することは常に善良な気持ちを持ち続けることです。ところが、時の為政者や権力者によって独善的に解釈され、素直な気持ちで額面通り受け止めると、とんでもない事件や事故に巻き込まれることが歴史上枚挙にいとまないほど起こっています。
 だから、政治や経済など実社会では純粋だけでは生きていけないと言われます。また、何事も清濁併せ吞まなければ世渡りできないともいわれます。しかし、孔子は純粋に生きることの大切さを弟子に説いているのです。
 おそらく、この総括にある「邪(よこしま)を排除すること」は、編集後に、結果として出てきた感想でなく、詩経を編集するにあたって堅持してきた孔子の編纂方針だったと思います。いつの時代も実社会は一筋縄でいかないことばかりです。だからこそ、孔子は自分が生きている混沌とした社会に新しい価値観を植え付けなければならないと考えたのだと思います。
 翻って現代の社会にタイムスリップします。本項と関連することなので紹介します。その人が言うには「純粋な心を持っている人ほど心の汚れた人を見分けることができる。だから純粋に生きることを誇りにしなかればならない。そして、汚れた心や邪(よこしま)な人と親しくすることはないので、その結果、邪(よこしま)な人との交流から過ちを犯すことを防止することができる」というのです。

 論語の教え19:「人々や社員を導くことは法制度や就業規則で厳しく締め付けることではない。正しく導く唯一の方策は自らの徳を積むことの大切さを人々に気づかせることだ」
 
 教え1.「まず、上に立つ人が徳を身に着けよ。しかる後に徳を全体に普及させよ」
 孔子は、常に弟子を含む社会のリーダーに徳を積み重ねることの大切さを説いてきました。為政者など指導者はまず民を治める前に自己を磨きなさいと教えているのです。それが前項でもありましたように徳を積んでいるリーダーには人々は黙って従うのです。  
 共同体社会にも、利益社会にも必ずリーダーが存在します。また、基本的な価値観を共有しています。本項で、孔子は初めてリーダーの徳に加えて、人々が徳を積むことによって社会全体の健全な発展が可能になることに言及しました。
 法律や規則で厳しい罰則規定を設けて、人々を締め付けても人々は必ず抜け道を考え出し、罰則逃れをするだけで何ら本質的な解決にならないとの指摘です。現代社会においても企業内の就業規則違反や犯罪行為に対して罰則を厳しくして社員を取り締まろうとするのですが、社員は反発こそすれ、順守するのではなく、就業規則違反が少なくなったり、無くなったという話は聞いたことがありません。問題解決の処方箋が間違っていたのです
 ことほど左様に、人々を指導する方策のあり方で社会全体を正しい方向にリードできるかどうかが決まります。それでは的確な方策が選択されるにはどうあるべきでしょうか。

 教え2.徳は人々に押し付けて習得させるものではない。本人に気付かせることによって体得させよ。
 リーダーが人々を正しい方向に導く有効な基本的方策は二つ考えられます。
 第一は。組織の統治者であるリーダーは価値観を明示することです。これは、リーダーのみに与えられた権能です。価値観とはその組織の構成員が最も大切にすべき判断基準のことです。
孔子は価値観を共有するために儒教という思想体系を構築し社会に浸透させました。そして五常(仁、義、礼、智、信)という徳性を拡充することにより五倫(父子、君臣、夫婦、長幼、朋友)関係を維持することを教えました。
 これらの一連の流れは、現代の企業社会においては経営幹部が経営理念、経営方針、経営戦略を確立することとその実践にあたります。それは、企業の存在意義とステークホルダーである顧客、社員、品質、納期に対する姿勢、経営の方向性をあきらかにすることです。

 第二は、執行に当たっては責任を明確化するとともに、可能な限り権限委譲することです。
 どのような社会や組織においてもリーダーは価値観を策定し制定することはできますが価値観を組織に浸透させ、価値を実現することには無力です。そこは人々や社員を信頼し権限を委譲して実行する以外に方法はありません。権限の委譲に関しては組織の進化と関連しますが別項に譲ります。
権限移譲されれば人々に自己責任意識が芽生えます。自責の念で仕事を分担すればおのずと自立、自律の意識が醸成されます。リーダーから一々細かな指示命令を受けなくてもやるべきことが浮かんできます。自ら考え実行することにより、過ちもありますがその過程で多くの気づきを得ることができます。その気づきこそ組織と個人の成長エンジンとなります。

 論語の教え20:「生涯をかけられる揺るぎないテーマをバックボーンに探求すれば納得できる人生が送れる」―自己矛盾に陥らない伸び伸びした人生を送るために

 孔子の揺るぎない支柱は五常と五倫
 孔子の生涯は一口で言うと真理を探究する生涯であったと言えると思います。
現代風に言うと真理を探究することがライフワークでした。それが前項で述べた儒教という思想体系でした。五常(仁、義、礼、智、信)という徳性を拡充することにより五倫(父子、君臣、夫婦、長幼、朋友)関係を維持することに発展させました。
 高弟によりますと孔子は自分を売り込んだり、地位を求めたことは一度もありませんでした。祖国「魯」で枢要な地位に就いた時も、他国から指導を求められた時もすべて乞われて受け入れたのでした。
 したがって、権力におもねることもなく真理に反することに対しては誰に対しても遠慮会釈なく毅然として正論を吐き続けることができました。
 孔子のこの正論は学而編でも述べられているように単に理屈をこねまわす空理空論ではなく、実践の中から紡ぎだされた経験法則だったので説得力がありました。

 自己矛盾に陥らない人生―真理を追究すること
 また、孔子の考えはいかなることがあっても主張にぶれることはありませんでした。一貫性を持っていましたので後でつじつまを合わせることや一切の弁解も必要としませんでした。鋭い切り口で未来を洞察していましたので相手は従わざるを得なかったのです。
 納得できる人生を送るとは自己矛盾に陥らない人生を送ることです。自己矛盾とは自分の考えと行動につじつまが合わないことで誰かの操り人形になって人生を送ることです。
 これほど寂しい人生はありません。自己矛盾に陥らない最高の特効薬は生涯をかけて真理を追究し続けることだと孔子は教えてくれているのだと思います。(了)

 論語の教え21:「親に孝行することは生前の親の恩に報い、礼に従い見送って、子孫に引き継ぐことだ」

 人生は孝行のバトンリレーだ
 礼とは儒教の五常の一つです。礼は法律や規則というより、特に明文化されてはいませんがその地域や社会で長い時間をかけて醸成された、とても大切にされているしきたりや掟(おきて)のようなものです。掟(おきて)とはそこに住む全員が守らなければならないと認識している事柄です。掟を破ったらそこで生活することができません。克己復礼(こっきふくれい)という言葉があります。孔子の言葉ですが、その意味するところは私情や私欲に打ち勝って、社会の規範や礼儀にかなった行いをすることで社会から認められるということです。
 孝は親が生きているときには親に誠意をもって仕え、亡くなったらその地域社会の風習に従い弔(とむら)います。そして風習に従い末永く法要して先祖を敬うのです。
 これら生と死を超え、心のこもった親を敬う行為は自分の子供や孫にまで伝わります。自分が先祖を敬う行為はやがて子孫から敬われることになるのです。

 上司・先輩から謙虚に学び、仕事を通じて実践的に伝承する
 孝行は家庭にあっては親に孝養を尽くすことですが、外にあっては年配者を敬うことです。現代風に言えば職業人生において先輩や上司に礼を尽くすことだと思います。このことは具体的に全編の学而1-6でも明確に述べられています。身近な人との人間関係を円滑に築けない人は多くの人をリードする立場に立つことができません。孔子は上に立つリーダーが常に心掛けなければならない言動の誠実さや慎重さを説きました。この結果、周りの人々との人間関係を密にし、さらにその輪を広げることができるのだと教えました。ビジネス社会でいえば上司や先輩から謙虚に教わり、そのことを職場内で仕事を通じて後輩や部下に伝承してゆくのです。このようにすればその組織は実践的な人材育成が可能になります。孔子は実践的な指導を行って、さらに余裕があれば、自分を成長させるための学問をしなさいと教えています。

  論語の教え22:「実の親子関係であれ、組織の上下関係であれ個人の人格をお互いに尊重することが大切だ」

 お互いに個人の人格を認め合うこと
 「親の心、子知らず」という諺(ことわざ)があります。親が子の立派な成長を願う気持ちは、なかなか子供に通じないものです。子供は親の気持ちを理解できないので自分勝手な振る舞いをするものだという意味ですが、この諺は親の一方的な解釈で親の価値観を押し付けるものであってはならないということです。子供は親が生んだことには間違いがないのですが生まれてからは別人格です。子供を私物化するものではありません。たとえ、血族であったとしても親が相互の人格を無視した言動があった時、つまり、子どもにとって、人間関係上の踏み込んではならない第一線を踏み超え、逃げ場を無くして追い詰められた時には「窮鼠猫を噛む」行動を取ります。取り返しのつかない反社会的行動を引き起すこともあります。
 これは血族社会だけの話だけではありません。企業などの利益追求社会においても全く同じ現象が生じます。上司が良かれと思って部下を厳しく叱責したり、追及したりします。現代風にいうとパワーハラスメントです。上司が部下を育てるつもりが部下の自信を喪失させ精神的病を引き起こしてしまいます。
 親子であっても、上司と部下であっても両者に共通する留意点は次の通りです。
 第一に、お互いの心の境界線を踏み越えないこと。
 第二に、お互いの人格を認め合うこと。
が社会や組織を健全に維持発展させる黄金律だと思います。

 「子をもって知る、親の恩」と「部下をもって知る上司の恩」
 一方、「子をもって知る、親の恩」という諺もあります。子を持って知る親の恩とは、自分が親の立場になって初めて子育ての大変さがわかり、親の愛情深さやありがたさがわかるという意味です。
自分がその立場に立って真の意味を理解できるということです。血族社会の原点を表す諺だと思います。
 企業社会においても全く同様の現象があります。「部下をもって知る上司の恩」という言葉です。部下を持ったことがない人には上司の指導や忠告はうるさいものです。「親でもないのに何であそこまで口うるさく言われなければならないのだ」と反発心を持ちます。
 ところが、管理職になって部下を持つと、上司の気持ちが不思議と理解できるようになります。上司に反発心を抱いた同じ言葉に対して「親でもないのに、自分のことを思ってよくぞここまで育ててくれた」と感謝の念を持ちます。
 そこで初めて更なる成長ができるかどうかのポイントをつかむことができるのです。心から上司の恩を感じ取った人には大いなる飛躍がもたらされます。

 論語の教え23:「人間にしかできない真の孝行とは親を養うことだけでなく親を敬うことだ」

 孝行とは単に物質的に親を養うことではない
 若い弟子からの問いに対して孔子の答えは「今頃は親を養うことが孝行だという風潮があるようだが、親を養うだけなら馬や犬でもやっている。そんなことで孝行というなら犬や馬と何ら変わらない」という回答でした。
 そして、「本当の孝行とは親を敬うことなんだよ」と諭すように教えたのでした。
 前述したように45歳も年の離れた孫のような存在の弟子に噛んで含めたように世間での誤った風潮をただしながら、それには直接触れずに「孝」の本当の意味を説いています。
 それにしても、驚くのは2500年後の現代社会においても燦然と輝く珠玉(しゅぎょく)のアドバイスであることです。人間社会の進歩は遅々として進まない証(あかし)でもあります。

 現代のビジネス社会における孝行とは上司を敬うことだ
 それでは現代のビジネス社会では孔子の教えをどのように取り入れるべきでしょうか。ビジネス社会は何度も出てくるように血のつながりで構成される社会ではありません。でも孔子の考えは現在のビジネス社会においても全く当てはまることばかりです。
 ビジネス社会といえば所属する組織の中の人間関係です。その関係性や影響力は血族社会より濃密です。会社生活は時間にすれば家庭生活より長いのです。人生の大半は会社生活にあると言えます。その会社生活が面白くなく充実していなかったとしたら大変です。
 子供が親を選択できないのと同様に、職業人生においては上司を選択することはできません。社会に出るまでは親の指導に基づいて子供は成長しますが、実社会に出ると親に変わって上司が育成してくれるのです。職業人生で成長するかしないかは上司で決まると言っても言い過ぎではないでしょう。前回述べたように若かりし頃は親でもないのになぜ厳しく叱られたり小言を言われなければならないのだと反発したのに、いずれ自分も部下を持つようになると同じ状況に対して上司に感謝の念を持つようになります。それはほかでもない上司を敬う気持ちが生じたからです。自分を一人前の社会人に育ててくれた上司への感謝の念を持つことにより会社生活はますます充実してきます。
 「上司は部下を理解するのに三年かかるが、部下は上司を理解するのに三日もあればよい」という諺(ことわざ)があります。ここでの問題は部下が上司の欠点ばかり見てしまうことです。
 孔子は上司を敬うには上司の欠点でなく優れたところを見抜くことが大切だと説いています。

 論語の教え24:『孔子の教えに共通する「孝」の形而上的意味合いをしっかり理解すること』

 孝の現象的行為は100人いれば100通りある
 それぞれの家には長年培われた家風があります。先祖から引き継がれたその家のしきたりです。おおよそ、その家風は家長の生きざまを反映したものですが、地域社会の風俗や習慣など地域文化から影響を受けたものです。さらに、世代ごとに獲得した社会的地位や名誉、それに経済力が加わると社会には無数に近い生活様式が存在することになります。そのような生活様式に基づき親孝行の形が様々に形成されてきます。
 社会的に成功した人は親孝行と称して先祖を祭る大きな墓石を建立します。また、大きく豪華な邸宅を建てたり、贅を尽くした生活をします。
 また反対に、普通の多くの人々はつつましやかに生きています。
 事程左様に現象面では、百様の生活があれば百様の親孝行の形があります。また、時代が変わればその現象的孝行のスタイルも変わります。
 しかし、どんなに時代が変化しても唯一不変の人間にしかできない孝行があると孔子が説いています。
 「それは先祖や親を敬うことだ」
 これが孔子の説く「孝」の形而上的(形に現れない)意味合いです。敬いのない物質的な豊かさで親を扶養することは単なる見栄であり、浪費にしかすぎません。

 孝は強要されるものでなく、子孫が主体的に行う行為である
 ご承知のように親孝行にはされる側とする側があります。
 孔子の考えが卓越しているのは、子に対して一方的に親孝行を強いてはならないと教えていることです。親も生前には子や子孫から敬われる徳を積まなければならないというのです。
 例えば、尊敬に値しない親がいたとします。親が老いて子供に親孝行を理不尽に要求したとしても子供から生んでくれと頼んだ覚えはないと反発されるだけです。現代社会では時々こんな話を聞くことがありますし親子の間で刑事事件を引き起こすような不幸な事件もあります。
 これらは「親孝行は子供の義務だ」と誤解している不遜な親が引き起こしていることが多いように思われます。
 ビジネス社会にも同様な現象があります。上司が部下に自分への尊敬を要求したとしたらどうなるでしょうか。その瞬間、上司と部下の信頼関係は修復不可能な絶縁状態になります。部下から尊敬される日々の上司の行為が長い間に蓄積されて信頼関係が構築されるのです。
 孔子の言う孝の形而上の意味合いは「親や上司への究極の孝行は子や部下から敬われることである。而もその行為は子や部下に強いるものではない」というのが孔子の教えです.

 論語の教え25:『我欲をコントロールし陰日向無く精進できる者こそ真の仁者である』

 顔回こそ真の求道者(きゅうどうしゃ)だ
 辞書によりますと求道者には「きゅうどうしゃ」と「ぐどうしゃ」という二つの呼び方があるようです。「求道者」を「きゅうどうしゃ」と読んだ場合、意味は「真理や悟りを求めて修行する人」となります。一方「求道者」を「ぐどうしゃ」と読んだ場合は「仏道を求める人」といった意味になります。 仏教の教えや真理を求める人のことです。
 明らかに顔回は前者で、真理や悟りを求めて修行する人でした。仕官もせず、名誉を求めませんでした。貧窮生活にありながら人生を楽しみ、ひたすら仁の修養に邁進したと伝えられています。
 孔子は顔回の真理を追究する高潔な生き方を見て自分の後継者にしたかったようですが前述したように惜しまれて30歳年長の師より先にこの世を去りました。

 我欲をコントロールすることの大切さ
 我欲とは自分一人の利益や満足だけを求める気持ちのことを言います。この我欲は人間なら誰でも持っているものです。また、個人としての人間だけでなく、個人の集まりである集団にも我欲があります。人間である以上この我欲を捨て去ることは通常の場合あり得ません。
 さらに、この我欲は正しい方向に制御されていれば何の問題もないのですが、始末が悪いことに時々制御不能な状況に陥ります。この現象は個人にも集団にも同じように現れます。
 組織が制御不能な状況に陥ったら、大抵、大きな問題が発生します。それはその組織が存亡の危機に直面したことを意味しています。
 孔子の生きた春秋時代は小さな国家が乱立し、国家の我欲が暴発した時代でありました。全国各地で争いが絶えませんでした。個人のレベルでも我欲をむき出しにして覇権争いや土地の収奪に明け暮れていました。
 このような時代背景にあって、顔回(がんかい)は師との対話で細かな意見の相違があったとしても議論せず腹で包み込みました。本項の会話にあるように一見馬鹿ではないかと誤解されるほどでした。
 この時代に生きた人間としては珍しいほど自己主張のない素直な人でした。それでいて自分の意見がないのかというと決してそうでなく師の教えを自分なりに咀嚼して実践していたのです。この姿を伝え聞いた孔子は感じ入ります。
 顔回(がんかい)こそ仁者だと…。
 顔回(がんかい)は自分の人材育成方針を真に実践している逸材であると認識したのです。孔子の人材育成方針は前に述べましたように「自ら考え自ら実践する人材を育成する」というものでした。そのために、「三者三様の教え」「正解を導き出す思考過程の教え」「事実を検証することの教え」の三点を強調しました。

 論語の教え26:『人間の本性は過去どのように生きてきたのかを洞察することで見えてくる』

 臨床心理学者はカウンセリングするときに眼前のクライアントがどのように生きてきたのかを可能な限り過去にさかのぼり聴き取ります。クライアントの行動に対して否定も肯定もしません。ただひたすら聞くことに徹します。
 それは、クライアントの人格形成に影響を与えた要因や要素を分析し把握するために行うのです。実は、人事を理解する根本原理が過去にさかのぼることによって見えてくるのです。
 人事の第一の真髄は「その人の過去を知り、現在どのように生きているのかを観察する。そして、未来に向けて何を目指そうとしているのかを見抜くこと」です。
 本項はまさにこの人事の真髄にせまる孔子の人間観を語っています。それにしましても、本項にあるように、孔子の人間観察に対する慧眼には唯々(ただただ)、目を見張るばかりです。

 人事の第二の真髄は「人間の人格を尊重し多様性を尊重する」ということです。
 それは個々人の違いを把握し認識することを意味します。この世の中でただ一人として同じ人物はいません。にもかかわらず、私たちは他人(ひと)をステロタイプ(先入観や思い込み)で一括りにして見てしまいます。例えば、中国人はどうとか日本人はどうとか、また、男だからとか女だからとか、あるいは、年配者だから、若者だからというように束ねて見てしまう傾向があります。そして、違いを認めようとせず、自分たちの文化や価値観を他人に押し付けようとします。そこには理解しあうことや共感することはなく、不毛の対立や軋轢しかありません。
 最近の流行(はやり)言葉でいえば人間はダイバーシティ(多様性)を持った生き物です。その多様性を認めることが人事を進めるうえで最も大切な第一歩です。

 人事の第三の真髄は「人事は人と人の組み合わせだ」ということです。
 つまり、個人と集団の能力は別物であるということです。個人の能力の総和が集団の能力と必ずしも一致しません。いかに個人の能力が優れていたとしても集団でいい成果がアウトプットされるかというとそうではありません。むしろ、逆の場合が多いのです。どうしてでしょうか?
 神輿(みこし)に乗る人、神輿を担(かつ)ぐ人と言われます。集団でいい成果を出すには、それぞれの役割を果たせることが大切です。神輿に乗る人が多すぎても、担ぐ人が多すぎて指揮する人がいなければ集団の成果が期待できません。それがチームワークというものです。
 適材適所という言葉もあります。人にはその人の得意領域があります。その人に最適な仕事を分担してもらえば最高の能力が発揮できるというものです。それで、組織の足し算から掛け算へと変質を遂げるのです。

 論語の教え27: 歴史という長い時間軸で熟成した人類の英知を活学すべきだ

 教え1「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」
 この名言は初代ドイツ帝国宰相であるオットー・フォン・ビスマルクの残した言葉です。いきなりドイツ人の話が出てきて驚かれたと思います。
 時代も国も文化も全く異なる社会に生きた二人の偉人に共通する考え方を紹介する意味であえてここで引用しました。
 ビスマルクの言っている「愚者は経験に学ぶとは愚かな人は自分一人の経験からしか学べない。「賢者は歴史に学ぶ」とは、賢い人は長い歴史に脈々と流れる他人の経験を含む歴史的事実から学んでいるという意味です。
 論語の温故知新の故(ふるき)を温(たずね)と言っているのはまさに歴史に学ぶということです。
 そして、歴史に学ぶことは限りある個人の知見より多くの人が経験してえた知見のほうがはるかに確実性の高い情報になるからです。


 教え2「同じ失敗を繰り返さないために、故(ふるき)を温(たずね)て、先人の経験法則を学ぶべきだ」

 ご承知のように、経験法則は一朝一夕(いっちょういっせき)にできるものではありません。長い時間をかけて人類が蓄積してきた普遍性を持った決まりごとです。
歴史は私たちが長い時間をかけて熟成した実際におきた事例です。そこには成功した事例もあれば、失敗した事例もあるでしょう。また、成功したがゆえに失敗を引き起こす誘因となった事例もあります。

 私たちが「故(ふるき)を温(たずね)る」理由には次の二点が想定されます。

 第一は先人が失敗した事例や成功したことが誘因となって失敗した理由を研究し二度と同じ過ちを犯さないためです。
 私たちが営んでいる人間社会は自然科学界と異なり正解が一つであると断定できません。正解が複数ある場合もあります。また、ある時は正解であっても、環境が変われば不正解に変化することがあります。
 従いまして、これらに的確に対応するには事例研究を怠らないことです。それは、知識を増やすためでなく、数多くの事例に触れ、繰り返し事例を解く訓練をすることにより思考力を強化することです。後世、ケースメソッドと言われる学習方法が開発されました。そこで討議を積み重ね、経営責任者としての思考力を鍛錬することで最適な対応策をまとめ上げるのです。
 ここでも孔子の人材育成方針が生きてきます。
 それは、「自ら考え、実行する思考力を養成すること」です。
 そのために、「三者三様の教え」「正解を導き出す思考過程の教え」「事実を検証することの教え」の三点を実践しました。

 第二は不測の事態が勃発したときにその対応策を誤らないためです。
 この世の中で、将来何が起こるのかを確実に予見することは不可能です。未来はすべて神のみぞ知る世界です。将来何が起こるかは誰にも分かりません。そこで、何かが起きた時にどう対応するか、教材は過去にしかありません。そして、それを自分の身体に叩きこむことです。
 ここに私たちが「故(ふるき)を温(たずね)る」理由があります。
 天災や人災であれ、災害、事件や事故がいつ起きても不思議ではありません。
 いずれまた大きな天災が起こるでしょう。その時に災害への対応策を勉強した人としなかった人、どちらが助かりやすいかは誰にでも分かります。歴史を学ぶ大切さは、これに尽きます。

 論語の教え28: 「人の上に立つ指導者を目指す人ははゼネラリストであれ」

 人間には理系タイプと文系タイプがあるように、能力にも二つのタイプがあります。いわゆるゼネラリスト(管理職・指揮官型)タイプとスペシャリスト(専門職・参謀型)タイプです。これらには優劣はありません。しかしながら、両方の資質を同じレベルで備わった人はほとんどいないと言っても言い過ぎではありません。

 上に立つ人は幅広い心と関心を持て
 孔子は人の上に立つ指導者にはゼネラリストがふさわしいと言っています。しかしながらスペシャリストよりゼネラリストが優れていると言っているのではありません。人にはその人に天が授けたタイプがあります。また、人にはそれぞれの立場で果たすべき役割もあります。スペシャリストであれ、ゼネラリストであれ、まず、これらの任務を全うすることが重要です。
 従って、自分のタイプに最適な仕事を選択することが望まれます。自分のタイプと職務がマッチすれば自分を向上させる正の循環が始まるからです。
 それでは、最適な職務を選択するにはどうすればいいのでしょうか。それには前述したように自分の可能性を試すために幅広く経験を積み重ねることで可能になります。若かりし頃はえり好みせずいったんは挑戦してみることです。
 このことを孔子が生涯をかけて実証しました。孔子だからできたのだと思うかもしれませんがそうではありません。誰にでもできることだから孔子は弟子や次代を担う若者に呼び掛けたのです。
また、なぜ、上に立つ人は幅広い関心を持つ必要があるのでしょうか?
 リーダーは多くの人に導き進むべき方向を示さなければならないからです。それは、自分だけの関心事だけでなく、広い心で多くの人の関心事も理解しなければなりません。この広い心で何事にも関心を寄せることは多くの人を導くための必須事項です。

 処遇と責任を混同するな
 かつて、人事管理はゼネラリスト優位論が主流でありました。俗な言葉でいえば職制上の地位が上がらなければ出世できないし、給与も上がりませんでした。そこで、給与を上げるために職階と職位を数多く増やし続けました。
 その結果、部長、課長、係長、主任という正規の職制に加え、副部長、副課長、副係長、副主任といった職責とは関係のない名称が組織内に氾濫することとなりました。
 また、部下を持たない名前だけの管理監督職も生まれました。
 その結果、人事の停滞や硬直化が始まりました。責任を持たない名前だけの役職者が激増し組織編成ができなくなったからです。しかも、いったん付けた肩書は簡単に外すことができません。なぜなら、給与と直結しているからです。ここでも人事の硬直化が顕著になりました。
 本来、職制制度は事業方針を遂行するために職務分掌、職務権限、職務責任を明確に規定したものです。人事処遇とは全く関係がない仕組みですがそれをあえて同一にして運用したために混乱が生じてしまったのです。
 人事管理を有効に機能させるためには職制制度と人事処遇制度を別々に運用することが絶対条件です。

  論語の教え29: 「人の上に立つ指導者たるものは不言実行のできる人だ」

 「不言実行」と「有言実行」とは?
 ここでは、「不言実行」と「有言実行」の優劣を論じているのではありません。しかし、孔子は人の上に立つ指導的立場に立つ人はあれこれと理屈を言う前に黙って実行する人だと語っています。それは前述したように能弁である子貢から質問されたからです。
 「不言実行」とは、黙ってなすべきことを実行するという意味です。
 一方、「有言実行」とは、言ったこと、人の前で宣言したことを必ず実行することです。 例えばあなたが部下に「新規顧客を5社獲得する」と宣言したとします。実際にそれを実現させたら、あなたは有言実行したことになります。 言ったことは必ず実行したり実現させたりする人を「あの人は有言実行の人だ」と周りから尊敬され信頼されます。
 通常のビジネス社会では上に立つ人は「指示命令する人」、「引っ張る人」のイメージが強いのですが、黙って実行する人こそ行動力のあるリーダーの証(あかし)だと言えると思われます。

 部下の美辞麗句に惑わされず、公正に人事管理する
 孔子は学而編1-3「巧言令色鮮し仁」で言葉巧みに人に取り入る人間は信用できないと述べています。孔子はぺらぺらと空疎な美辞麗句を操ることを極端に嫌いました。美辞麗句を並べる人物は古今東西どこにでもいます。このような人物も問題ですが、それより問題なのは上位者が表面的な気持ちよさから信じこんでしまうことです。
 権力を持てば持つほど媚びへつらう人や二枚舌を使う人が押し寄せます。二枚舌に乗せられる上司を脇が甘いとよく言われます。苦労したことがなく、周りから持ち上げられてきた人に多くみられる傾向です。心にもない美辞麗句に乗せられて人事の依怙贔屓(えこひいき)が組織に蔓延しますと上に立つ人の信用がなくなるだけではすみません。組織そのものが活力を無くし、やがては衰退の道を進むことになります。私たち人類の歴史はこの騙し合いの歴史でもありました。今日まで綿々と繰り返されています。

 論語の教え30: 「良き人間関係のコツはヤマアラシのジレンマに陥らないことだ」

 ヤマアラシのジレンマとは?
 「ヤマアラシ・ジレンマ」とは、人と人との間の心理的距離が近くなればなるほど、お互いを傷つけ合うという人間関係のジレンマのことを言います。アメリカの精神分析医ベラックはこの現象を「ヤマアラシ・ジレンマ」と名付けました。

  以下の話は現代のイソップ物語です。
 「ある冬の日、2匹のヤマアラシは嵐にあいました。2匹は寒いので、お互いの体を寄せ合って暖をとろうとしたところ、それぞれのトゲで相手の体を刺してしまいます。痛いので離れると、今度は寒さに耐えられなくなりました。2匹はまた近づき、痛いのでまた離れることを繰り返していくうちに、ついに、お互いに傷つけずにすみ、しかもほどほどに暖めあうことのできる距離を発見し、あとはその距離を保ち続けました。」

 人間同士がお互いに親しくなるためには「近づく」ことが必要です。
 いい例が夫婦関係です。結婚したてのときはお互いに新鮮な気持ちで緊張感をもって家庭生活を営みます。やがて、子どもができて家族生活を営むようになると遠慮がなくなり相手の粗(欠点)が気になり始めます。黙っていればよいのですが我慢できなくなって相手に不満を言います。この段階では相手が好きであるがゆえに相手のことが気になるいわゆるアンビバレンス(愛と憎しみが同居している)な状態にあります。
 ここではまだ、愛情や信頼関係が残されているのですが、しばらくたつと罵り合うような不毛の対立が始まります。このように、お互いに近寄りすぎると極度の緊張感にさいなまれ、それが進むと反発が起きます。かといって遠ざかり過ぎると精神的に疎外感が生まれたり、違和感を抱いたりしがちです。
 夫婦関係でなくとも、友人、知人の間でも同様のことが起こります。さらに言えば会社の上司と部下、同僚間でも起こりうる話です。
 結論的に言えば、いい人間関係を持続させるには適正な心理的距離をそれぞれがもつことが大切なのです。
 どうしたらうまく心の距離感をとれるのか、
 では、心理的距離をうまくとって人間関係をコントロールするにはどうしたらよろしいのでしょうか?
 それには、まずは次の三点に留意するといい人間関係が構築できます。

 第一は、相手の人格を認め自分の価値観を相手に押し付けすぎないことです。たとえ親子のような血族関係であったとしても相手の人格を尊重し節度をもって交流することを心掛けることです。ましてや血族関係を持たない第三者には組織の上下関係であっても相手を尊重することが大切です。

 第二は、相手の弱みに付け込み、欠点や不足することを指摘しすぎないことです。
 この世の中には完全な人間は誰もいません。必ず、長所と短所を持っています。相手の短所を無くそうといくら努力しても短所は無くなりません。指摘された相手を不快にするか反発されるだけです。そんなことに無駄な時間を使うなら相手の長所や強みを伸ばすことに時間を使ったほうがよほど生産的です。

 第三は、交流する際に相手に感じたことをストレートの出しすぎないことです。
 言い換えれば、相手の一挙手一投足に関心を持ちすぎないことです。また相手の態度や言動に一々口出しせず、出かかっても飲みこむことが大切です。良かれと思って口出しすることが相手には嫌味に映ります。清濁併せ呑む度量の大きさが人間関係をよくするコツであり、それらが、「ヤマアラシ・ジレンマ」に対する有効な解決方法です。そして、人とのグッド・コミュニケーションの近道だと思われます。

 論語の教え31: 「組織も個人も目的を明確にして、バランスの取れた育成と学習に取り組む」

◆初めに育成目的ありき
 「組織は戦略に従う」という言葉があります。この言葉の意図するところは「組織は会社の戦略を遂行し実現するために編成される」ということです。ここでいう組織とは組織機構図だけではありません。人材配置された実働部隊を意味します。この観点から人材育成の目的を考えてみましょう。

目的1.会社の発展の確保
 ご承知の通り、会社には経営理念、経営ビジョン、経営方針があります。これらを実践し実現するのはすべてその会社の社員です。経営者だけでできるわけではありません。経営者のリーダーシップのもと社員の総力を結集し、日々切磋琢磨することで初めて実現できるものです。社員の成長のスピードが会社の成長のスピードと正比例すると言っても言い過ぎではありません。また、会社の競争力は社員の問題解決のスピードに正比例するともいわれます。このように社員を育成することは会社の発展に直結しています。

目的2.戦略と人材育成の統合
 戦略と関連しない人材育成は意味がありません。それこそ、時間と資金の浪費というほかありません。
 第一義的に会社の発展に貢献できる人材育成を優先すべきです。人の能力には総合判断力と対人能力と専門能力があります。そのバランスは職責と職能で決まります。 
 一般的に会社の上位職位になればなるほど総合判断力が求められますし、下位職位ほど専門能力が求められます。管理職であれば、この三つの能力がバランスしていなければならないでしょう。
 第二には人材育成が戦略を妥協させてはなりません。タイミング的に最適な戦略を選択したとしても遂行する人材が育っていないからという理由で戦略を先送りしてしまわないことが重要です。人材育成に時間がかかるので戦略とのアンマッチが生じてしまうとどうしようもありません。ここに人事の先見性が求められる所以(ゆえん)があります。

目的3.人材の量と質の確保
 会社にとっての人材は要因の質と量で決まります。要員の量は採用業務になります。要員の質は人材育成業務です。
 人材育成には長期的課題と短期的課題があります。前者は戦略的人材育成で会社の戦略(中長期計画)に対応しています。後者は問題解決型人材育成で会社の事業計画(1年以内の経営課題)に対応しています。ここで大切なことは人材育成には戦略と連携した目標組織図を描かなければならないことです。
 そうしなければ要員の質が見えてきません。当然のことながら人材育成計画も策定できなくなります。

◆人材育成施策の均衡と統合
 ①経験教育と知識教育の均衡
 人材育成はOJTと呼ばれる職場内教育とOFFJTと呼ばれる集合教育に大別されます。職場内内教育には上司からの個別的な指導に加えジョブローテーションやキャリアプログラムなど異質な職務や部門を経験することで能力向上を図る育成施策があります。集合教育には階層別教育や職能別教育があります。
 重要なことはこれらを均衡させることが重要であり、このどちらにも偏ってはならないことです。

 ②企業ニーズ(育成目標)と個人ニーズ(成長目標)の統合
 企業ニーズは言うまでもなく戦略を実現するための育成目標です。これが人材育成の支柱であります。しかしながら、社員個人の個別ニーズによる人材育成にも対応しなければなりません。社員には個人の生きがいややりがいをベースにした欲求があるからです。ここでは両者の均衡ということではなくあくまで統合すべきです。
 というのはあくまでも人材育成の中核は企業戦略を実現するためであり、その枠内で個人ニーズを充足することが望まれるからです。

 論語の教え32: 「まず基本原則を習得せよ。しかる後に実践し応用することを考えよ」

 「よい理論」ほど「実践的」なものはない
 理論と実践は必ずしも一致しないという人が多くいます。理論は現場で実践してみて初めて役に立つともいわれます。ある意味正統な考え方でしょう。ここで大切なことは、私たちは自己の考え方のバックボーンとなるような優れた実践的な理論を学んでおくことが異端なものに惑わされないことへの備えだと思われます。
 ところで、優れた理論ほど実践的なものはないと主張した人がいます。行動科学の創始者Lewin, K.(クルト=レヴィンです。「アクションリサーチの祖」としても知られるレヴィンは、「研究」と実践」のあいだを往還しながら、おそらく、そこに葛藤と可能性をおぼえ、自らの理論と実践を発展させていきました。自然科学系と異なり社会科学の「解」は実験で求められませんからどうしても試行錯誤の中での経験法則を導き出すという手間暇がかかります。
 私たちは先人の優れた功績を活用し経験法則を導き出すためには上記にある「実践」と「研究」を意識的に往復させながら自分流儀を編み出す必要があります。その繰り返しの中で自信もつき、確固たる信念が持てるようになるのだと思います。ここまでくれば占めたものだと思います。
そして、次の進歩のためにこの世の中に百花繚乱のごとく存在する諸説に触媒されると新たな発想が蘇ってきます。
 B=F(P E) 人間の行動は個人の特性と取り巻く環境に影響されて起きる
 この方程式も前記の行動科学の創始者Lewin, K.(クルト=レヴィン)が見出した方程式です。Bは、behavior、行動 Pは、personality、個人の特性 Eは、environment、環境 です。
私たちの人間行動は、自分のパーソナリティーだけでおきるのではなく、環境の影響を受けて起きているということです。
 ほかに類友の原則というのもあります。自分の周りには同じような考えを持った人が集まるというものですがこれも自分個人の考えだけでなく人との関係で同じ環境を選んでしまうこと指しています。
 たとえば、自分としては「一所懸命仕事したい」と思っていても、職場の同僚がやる気がなく「お前は何で会社の言いなりになるのだ」と否定的なことを言われたら、それをはねのけて一人だけで仕事をやり続けることは難しくなります。
 (P)は、仕事したいのです。でも、(E)は、仕事できる環境ではないのです。そこで、仕事しないという同調行動(B)になるのです。 だから、自分を取り巻く環境を前向きな考えを持つ人たちに取り巻かれるよう整えましょう。

 論語の教え33: 「人間はすべからく仮面(ペルソナ)をかぶった存在である。仮面の内側に人の真の姿が見える」

 ペルソナという言葉があります。英語のパーソン(人)の語源にもなったラテン語です。心理学用語では仮面のことです。心理学者ユングは人間の外的側面をペルソナと呼びました。人は誰でも仮面をかぶっているとの謂れ(いわれ)から用いたのです。

 仮面の内側に何があるか?
 私たちのパーソナリティの構造は内面から順に気質、性格、態度、技能、知識で構成されています。内側に行けば行くほど変革させることがむつかしくなります。
 例えば、気質は親から遺伝的に受け継いだもので後天的に変わるものではありません。
 次の性格ですが、気質ほどの先天性はないにしても幼少期に形成され、その後の変容はほとんど見られないと言われています。
 態度は辞書によりますと「ある対象や個人を取り巻く環境の一部分に関連して、個人のパーソナリティのなかに形成されている行動や反応の準備状態」とあります。
 要するに可視化されたその人の素振(そぶ)りです。前述の子路が孔子に対してとった武力を用いた脅しなどがその典型的な事例です。
 態度の外側には技能があります。繰り返し訓練することで体に覚えさせている術(すべ)を言います。頭で理解しても体は動きません。
 繰り返し行動しても同じ結果が得られるのは訓練して体に覚えさせているからです。最後に最も表面的で頻繁に目に触れるのが知識です。繰り返し同じ知識が現れるわけではありませんし、現れたものがすべて私たちの頭の中に残るわけでもありません。知識はめまぐるしく私たちの周りに現れますがその大部分は忘却の彼方へと追いやられるか陳腐化してしまいます。

 「知っていること」と「知らないこと」
 「学べば学ぶほど学ぶ領域が見えてくる」あるいは「知れば知るほど知らないことが増えてくる」と言われます。
 知らないことを知っているように装うことを知ったかぶりと言います。学ばない人ほど自分は学ぶ必要がないと思い込んでいます。学ばないと自分に何が不足しているのか見えていないのです。
 単に知っていることは知らないことと同然であるとも言われます。知識はあるのですが何も主体的に行動しない人のことです。いわゆる評論家といわれる人々のことです。この人たちは問題が起こる前には何も言わず、起こってしまったら批判するのが得意です。
 知っていることと知らないことを意識的に観察していれば、知れば知るほど知らないことが見えてくるという冒頭の言葉が心の底からわかるようになります。
 本項で取り上げた孔子が子路に教えたかった真意はどこにあったのか考えてみてください。
 子路は一見豪放磊落な人物です。考える前に行動してしまう傾向があり、このような子路に考えさせ、孔子が指摘するのでなく自らの気づきにより態度変容を起こさせる方法を選択したのです。

 論語の教え34: 「先憂後楽の精神」で仕事に励めば、結果は自ずとついてくる」


◆先憂後楽とは?
 その意味するところは、「常に民に先立って国のことを心配し、民が楽しんだ後に自分が楽しむこと。転じて、先に苦労・苦難を体験した者は、後に安楽になれる」ということです。「憂」は心配することです。中国,北宋の政治家で文学者でもあった范仲淹(はんちゅうえん)の著作「岳陽楼記」がこの名言の語源です。
 「天下の憂えに先んじて憂え、天下の楽しみに後(おく)れて楽しむ」ということから国家の安危については人より先に心配し、楽しむのは人より遅れて楽しむこと。志士や仁者など、りっぱな人の国家に対する心がけを述べた語」(出典:コトバンク)だと言われています。
 この話は現代にも十分通じる話です。経営者が自分たちの利を先に考え、従業員の福祉を後回しにすれば従業員は士気を下げてしまって働く意欲を無くしてしまいます。従って上に立つ指導的立場の人に先憂後楽の精神があれば会社はボトムアップすることが必定です。
 そして、会社が発展するための正のスパイラルが回り始めます。

◆人事処遇は求めるものでなく、作り出すもの
 給与、賞与、昇進、昇格などの人事処遇は会社から与えられるものではありません。本項で孔子が子張(しちょう)にアドバイスしているようにやるべきことをきちんとやっていれば、自分から求めなくとも結果は後からついてきます。
 やるべきこともやらずに権利だけ主張していても、会社に支払い能力がなければどうにもなりません。私たちのこれまでのコンサルティング経験によりますと給与や昇進などの処遇に動機づけられている社員が多い企業ほど業績が悪く、社員の求めるところとは反対に給与や賞与などの処遇が悪くなって社員の不満が鬱積しています。
 先に正のスパイラルのことを述べましたがこのような企業は逆に負のスパイラルに陥ってしまっています。これではどんな対策を打っても的外れになってしまいます。
 まず、分配する原資を全社一丸となって稼ぎ出すことです。自分たちの人事処遇の源泉は顧客がそのすべてを握っていることを全社員が心底認識することが大切です。

 論語の教え35: 「人びとが会社を信頼し、服務するのは公正な人事を進めることに勝る方策はない」

◎公正な人事とは?
 まず、公正とは何かということです。公正とは個人の能力及び会社への貢献度以外の要素で不当に差別されないことです。
 公正な人事には管理される側と管理する側の論理があります。 
 大切なことは「管理される人」が公正と思わない限り真の公正な人事が行われているとは言えないことです。例えば、「管理する」経営者サイドが、いくら「わが社は公正な人事を進めている」と言っても経営者や管理職の大半が総経理の血縁者で固められていたとしたら、社員は元より部外者であっても公正な人事が行われているとは判断しません。
 公正な人事には以下の三つの原則があります。第一は「機会均等の原則」、第二は「能力評価の原則」、第三は「成果配分の原則」です。

◆「機会均等の原則」
 機会均等には社員一人ひとりの能力開発と登用の機会均等があります。能力開発には社内外の研修参加やキャリア開発のための職能や職務の選択について、誰に対しても門戸が開放されていることが大切です。特定の人だけに門戸が開かれていては大多数の社員がやる気をなくします。社員の昇進や昇格についても同様です。

◆「能力評価の原則」
 社員の能力でなく、上司の好き嫌いで恣意的に評価されることは社員が最も嫌うことです。人は誰でも努力した結果、貢献度に応じて格差がつく事を嫌がりません。最も嫌うのは公正に評価されないことです。何らかの理由で特定の人が依怙贔屓(えこひいき)されることによって人事を不透明にしてしまいます。
 大切なことは人事評価に客観性があることです。人が人を評価するのですから、評価には勢い主観的要素が入り込みます。評価から主観性をどう排除するかが人事評価の最重要ポイントといっても良いでしょう。
 次の大切なポイントは納得性です。評価者と被評価者の両者が納得するものである必要があります。評価される側の貢献度を日常の業務活動から注意深く観察し、記録にとどめておかなければ、評価は主観的になり、納得性が得られないものになってしまいます。

◆「成果配分の原則」
 機会均等と能力評価が公正に行われれば最後に成果配分が公正に行われているかどうかが問われます。
 成果配分には月例給与と期末賞与があります。月例給与は生計給としての基本給と能力給とで構成されます。月例給与は下方硬直性が高いので業績をあげたからと言って大判振る舞いをしていると業績が悪化しても給与を下げられませんので賃金体系がいびつになります。業績を上げた社員には賞与で報いるようにすべきです。賞与は業績連動の成果配分なので上下することは当たり前です。従って、評価制度も業績評価と能力評価の二本立てが望ましいのです。

◎川の水は下流から濁らない
 組織で起きる現象を川の流れに例えて、公正な人事が行われなかったために上位職位から不正や悪しき慣行が組織全体にひろがることを表現しています。
 本項で孔子が哀公(あいこう)にアドバイスしたのはまさにこのことだったと思われます。「正しい者を抜擢して不正なものを統治すれば多くの人々は従う。不正なものを抜擢して正しいものを統治させれば多くの人々は従わない」と答えたのには意味がありました。
 古今東西、人事の原則は仁者を抜擢して人々を統治させることが国家の安寧を約束することです。ところが哀公(あいこう)は孔子のアドバイスを聞かないばかりか人を見抜く目も持っていませんでした。
 だから、公正な人事を行わなかったために、反乱が頻発したものと思われます。このことは哀公(あいこう)の末路を見れば明らかです。
 現代社会においても全く同じようなことがよく聞きます。歴史が繰り返されるということです。

論語の教え36: 「経営幹部(実質権限者)は自己の一挙手一投足が組織風土を形成することを自覚せよ」
 
◆組織風土とは何か?
 人は二人以上いれば必ず風土が形成されます。家には家風があります。会社には企業風土があります。地域や国にも風土があります。風土というと空気みたいなもので、とても分かりにくいと思われがちです。風土というのはその組織または集団の構成員で共有されている価値観です。言葉、文化、風俗、習慣、行動規範を含みます。要するにその所属する組織の価値観を共有できなければ同じ組織や集団に所属することはできません。いわゆる組織の「掟」(おきて)です。掟(おきて)とは公式にも非公式にも組織やグループで守らなければならないとされるそれぞれの組織や集団・グループ内の規範の総称を表します。
 以前にも触れたことがありますが人間は所属する環境に影響されながら生きる動物です。一人で自由に生きているという人がいるかもしれませんえがそれは錯覚です。その人の価値観は必ず環境により形成されています。

◆組織風土は誰が作るのか?
 それでは、組織風土は誰が作るのでしょうか?誰だと思いますか?
 組織風土の形成者はその組織の最高権威者です。家風を決めるのは必ずしも父親であるとは限りません。母親である場合もあります。親が高齢化すれば子供に移る場合もあります。企業の場合はどうでしょうか?企業全体の組織風土はその企業の実権者が形成します。一概に社長とは言えません。会長とも言えません。実質的に最高権限を行使する人が組織風土の形成者です。国でも同じ事です。古代中国春秋時代の魯国の場合には長らく三桓の筆頭、季氏の当主が風土形成者でした。君主である定公(ていこう)や哀公(あいこう)が握っていたわけではありません。孔子はそのことをよく知っていました。だから哀公(あいこう)と季康子(きこうし)は本項にあるように異なったことを教えています。
 要するに民に求める前に風土形成者であるあなたが行動を律してゆけば自然と民がそれに従うのですと厳しく指摘しているのです。それにしても孔子の慧眼には驚くほかはありません。

◆良き組織風土を維持するには?
 しかしながら、権力者だけで良き風土を維持できません。君主が仁者であってもそれは必要条件であっても十分条件とはなりません。
 孔子が本項で指摘しているように、良き風土を形成し維持するためには、能力のあるものを抜擢して配置し善政を行うことが非常に重要です。孔子はこの点についても君主である哀公(あいこう)にも言っていますし、本項の季康子にも伝えています。
 現代の経営であれば公正な登用基準で中堅幹部を抜擢することです。次が最も大切なことですが人材育成です。このことも孔子が季康子に説いています。上位からいくら立派な方針が出されても実際に行動する一般人が理解できなければ政策が実現できないからです。

論語の教え37: 「家(うち)を治められないものがどうして公(おおやけ)を治められようか?」

◆上に立つ人には「公人」も「私人」もない。「ノーブレス・オブリージュ」を自覚せよ。
 政治家や経営者など、人の上に立つ人々には、公的立場や私的立場の区別はありません。社会からその行為を批判されて「私的なことだから」と言い訳する人がいますが、誤解していると思います。
上に立つ人には、少なくとも倫理的な言行に対しては「公人」も「私人」もないことを自覚する必要があります。もし、世間から批判されるような不始末をしてしまったら、その不名誉は、当事者である本人はもとより、所属する組織全体の名誉を傷つけることになるからです。組織にとって、その損害は計り知れません。
 西洋の道徳観に「ノーブレス・オブリージュ」という考えがあります。この言葉には、とても深い意味があります。身分の高い者は、それに応じて果たさねばならぬ社会的責任と義務があるという意味です。究極の地位である王族には、私権より責任が優先されますし、国の有事には真っ先に先頭に立たなければなりません。その重責に対する覚悟と一生涯国民に奉仕し続けることが求められているのです。

◆上に立つ人は公私混同が致命傷だ!
 一見、上記と矛盾するように見えますが、全く異なる概念です。上に立つ人は、「私有物と公有物を厳格に区別して管理せよ」ということです。さらに、私生活で発生した費用と公的生活で発生した費用を混同するなということです。
 そして、人事処遇に関して、「自分の身内や血族関係者をただそれだけの理由で、特別扱いして優遇するな」ということです。
 古今東西、公私混同で、社会や組織を混乱させた事例は枚挙にいとまがありません。とりわけ、専制的な体制の組織では現代でも、公私混同はまかり通っています。地位を利用して私服を肥やすこともしばしば新聞紙上を賑やわせます。苦労して会社を軌道に乗せた創業的オーナーは、自分の会社だから何をしてもかまわないと開き直るかもしれません。そんな経営者は、会社を大きくしないほうがよいのです。企業はあくまでも社会の公器です。とりわけ、資本を公開した企業は社会の多くの出資者から資金を預かります。公器である以上、反社会的行為は許されません。発展する企業には、必ず、そこに牽制制度が存在し機能しています。

◆上に立つ人は自己管理が絶対条件である。
 上に立つ人の資格要件は、多くの識者がこれまでにも、能力面、性格面、資質面で語りつくすほど語られています。何も残されていないほど、語りつくされたと言っても言い過ぎではありません。
 論語でも、孔子は折に触れ、上に立つ人の心構えを語っています。これらを俯瞰してみますと、私は「自己管理こそリーダーの最重要要件ではないか」と思います。
 組織の盛衰は、すべてリーダーの自己管理力と不可分の関係になっていることを、感じざるを得ません。
 とりわけ、リーダーの心理を左右しているのが成功と失敗の法則です。「失敗は成功の母である」のと、同時に、「成功は失敗の母でもある」ということです。
 小さな成功を繰り返した後、経営者の慢心による大きな失敗は、その組織にとって、取り返しがつかないほどの大きなダメージを与えます。私は、長年のビジネス生活で、嫌というほどこれらの現実を見せつけられてきました。この「成功は失敗の母になる」ほとんどの原因は経営者の「自己過信」という自己管理の甘さから来ています。
 それでは、成功を勝ち得た人がどのように自己管理し、最終的な栄冠を勝ち取ったのかというと、理由は三つありそうに見えます。
 第一は、小さな失敗を数多くして失敗から学び、大きな成功につなげている人です。
 第二は、成功や失敗に一喜一憂せず、そのどちらであっても、常に冷めて物事を見れる人です。
 第三は、成功した時ほど、組織に対して「鬼面」を演じ、失敗した時ほど、組織に「仏面」で演じることができる人です。

 論語の教え38: 「信用の構築は重き荷物を背に、遠い道を行くが如く、信用の崩壊は火花の如し」信用を築くのは並大抵の辛苦ではできないが、信用を無くすのは一瞬である。

◆信用を築く三条件
 ①約束を厳守する
 約束に大小はありません。小さなことだと自分勝手に判断して、約束を守れない人がいますが、このような人は大きな約束も守れません。たとえ、少額な金銭の貸し借りであったとしても、借りたものは必ず返済しなければなりません。借りた人は時々忘れるのですが、貸した人はどんな少額でも、必ず、覚えています。お金だけではありません。書物などの本を借りた時には、期日までに借りたものは必ず返すことが、信頼を築くには不可欠です。

 ②秘密を厳守する
 口が堅いことは信用を築く大切な第一歩です。
 口の堅い人は、わざわざ、他言無用、部外秘とは断らなくても、これは、他言してはいけないと直感できる人です。
 大切な話を「ここだけの話」と、やたらに、打ち明けてしまうような人には大切な情報や相談がまず来ません。と言うことは大切な仕事が任されないことです。大切な仕事を任されないことは組織にとって日常的な繰り返し行われる仕事のみ行うことになります。いつまでたってもルーティンワークをしていては会社にとって必要な人でなくなります。

 ③時間を厳守する
 時間にルーズな人は基本的に信用されません。待たされる人は自分を軽く見ていると思うからです。また、顧客との約束時間に、遅れる人はよほどの理由がない限り、その商談は成功しないでしょう。一回だけならともかく、何回も時間に遅れると顧客から取引停止になるのが普通です。親しい関係だからといって多少は遅れてもいいだろうと思うかもしれませんが許されません。親しき中にも礼儀ありというのが、ビジネスマナーです。
 会議や研修への出席に関しても同じことです。自分だけ遅れてもあまり関係ないだろうと自己判断してはなりません。あなたが遅れたために、会議の開催が遅れたら、それだけで時間が浪費されます。出席者の人件費を考えたら会社にとっては莫大な無駄を発生させていることになります。

◆信用を落とさないための留意点
 信用を落とさないためには上記のことをしっかりと厳守すればいいのですが、それ以外に、心掛けると信用が増加する留意点をあげます。

 ①言い訳しないこと。
 人間は神様では無いので、万が一、厳守できないことがあるかもしれません。その時は「くどくど」と言い訳をしないことです。素直に謝るよう心掛けましょう。そして、二度と同じ失敗をしないよう心がけましょう。

 ②うそを言わないこと
 約束を守れなかった時には、私たちは、つい苦し紛れにその場しのぎで、軽いうそをついてしまいがちです。嘘は、必ず、ばれると心得るべきです。嘘が嘘を呼ぶような事態になれば最悪です。ここでも、やはり、勇気をもって潔く謝ることが大切です。人は誰でも一度の失敗は許すものです。

 ③報連相を欠かさないこと。
 報連相は人間関係の円滑油です。ビジネスをうまく進めるソフトウエアでもあります。どんな些細なことでも自己判断せず関係者に報連相しましょう。
 ここで、特に大切なことを二点あげておきます。
 第一は、悪い情報ほど先に報告せよ言うことです。
 いい情報は、矢のごとく早く上位職位に届きます。ところが、組織にとって悪い情報は途中でもみ消されたりして届かなかったり、届いたとしても事態が悪化して、にっちもさっちもいかなくなってから、責任者に届くことがよくあります。これでは遅すぎます。
 このような場合には、組織の文化として悪い情報は早く報連相することを確立する必要があります。

 第二は、報連相は下位職位からのものではないということです。
 報連相は、「上司が部下から受けるものだ」という企業が結構あります。それは誤解です。
 報連相には、上位職位も下位職位もありません。報連相が円滑で活性化されて組織では、上位職位からの報連相が活発です。
 上位職位が活発に報連相すれば下位職位からの報連相も活発になります。
 報連相はやまびこと同じです。発信すればするほど帰ってきます。
 かつて、私は、ある会社からこのような相談を受けたことがありました。その会社の管理部長は「うちの会社の連中はまったく報連相ができないのです。だから、私たちは現場のことがよくわかりません。そこで、報連相が活発に行われるための研修をやってほしいのです。」とのことでした。
 早速、中堅幹部を全員集めて報連相の研修を行いました。研修生の反応は管理部長の依頼内容とは全く異なっていました。逆だったのです。私たちが報連相しているのに上司は何の反応も示さないと参加者が私に訴えました。
 紙数の関係で詳細は省きますが、このような会社は一社や二社ではありません。

 ④人によって接する態度を変えないこと。
 上司には作り笑いをしたり、おべっかを言って腰を低くするのに、部下に対しては、反り返った態度や乱暴な言葉遣いで接することは、厳に慎んでほしいと思います。
 このような上司の顔色を見て仕事をする人は、誰からも尊敬されないばかりか、信用されません。明末の陽明学者、崔後渠(さいこうきょ)の「六然」という格言がありますのでここで紹介しましょう。



            <自ら処すること超然(ちょうぜん)>
        自分自身に関しては、いっこう物に囚われないようにする。
             <人に処すること藹然(あいぜん)>
           人に接して相手を楽しませ、心地良くさせる。
              <有事には斬然(ざんぜん)>
          事があるときは、ぐずぐずしないで活発にやる。
              <無事には澄然(ちょうぜん)>
           事なきときは、水のように澄んだ気でいる。
               <得意には澹然(たんぜん)>
            得意なときは、淡々とあっさりしている。
              <失意には泰然(たいぜん)>
         失意のときは、泰然自若(じじゃく)としている。

  論語の教え39: 「万物は流転する。流転の法則を見極めることが後世を予見することだ」
 万物が流転すると言ったのは古代ギリシャの哲学者ヘラクレイトスです。生没年不詳ですが,紀元前500年ころがその活動の盛期といわれています。奇しくもこの時代の中国で、孔子が活動していました。「この世の中の物はすべて変化する。変化しない唯一のものは変化するということだ」との格言も古くから伝えられています。

◆流転する中で、生き残ったもの、そして、これからも決して無くならないもの。
 西の聖書、東の論語と言われるほど、多くの人に親しまれてきたのには理由(わけ)があります。それは、誰であれ、論語に生きるための指針が示されているからです。孔子の教えは、儒教に集大成されました。根本経典は五常(仁、義、礼、智、信)の徳性を拡充することにより、父子、君臣、夫婦、長幼、朋友の 五倫 の道をまっとうすることです。
 「仁」とは、人間が守るべき理想の姿です。自分の生きている役割を理解し、自分を愛すること、そして身近な人間を愛し、ひいては広く人を愛することです。義・礼・智・信それぞれの徳を守り、真心と思いやりを持ち誠実に人と接するのが、仁を実践する生き方です。

 「義」とは、人の歩んでいく正しい道のことです。義をおろそかにすることは、道を踏み外すことになります。仁を実践する基本として、義を貫くことが必要です。本当に人を愛し思いやる生き方は、正義を貫いてこそ成り立つのです。

 「礼」とは、人の世に秩序を与える礼儀礼節は、仁を実践する上で大切なことです。親や目上の人に礼儀を尽くすこと、自分を謙遜し、相手に敬意を持って接することが礼、場合に応じて自分を律し、節度を持って行動することが節といえます。礼節を尽くして人を訪ねるという意味の「三顧の礼」という故事があります。この言葉の元は、三国志でした。

 「智」とは、人や物事の善悪を正しく判断する知恵です。
 さまざまな経験を積むうちに培った知識はやがて変容をとげ、智となって正しい判断を支えます。より智を高めるには、偏りのない考え方や、物事との接し方に基づいた知識を蓄えることが必要です。

 「信」とは、心と言葉、行いが一致し、嘘がないことで得られる信頼です。
 嘘のために一度損なわれた信頼を、取り戻すのは難しいことです。たとえ、仁なる生き方を実践していても、人に信頼されないことには社会で生きていけません。信頼は、全ての徳を支えるほどに大切なのです。

◆流転する中で、繰り返されるもの、そして一刻も早く無くしたいもの。
 それは何と言っても戦争と犯罪行為ではないかと思われます。戦争の起源は1万2千年前までさかのぼれると言いますから、人類の文明の起源とともに戦争が繰り返されてきたと言えるともいます。人類史は戦争の歴史でもあったのです。
 まさに、孔子が生きた春秋時代はそんな暗い時代でした。数百年続いた殺戮と群雄割拠の時代でした。弱小国「魯国」の出身者であったので、魯国と国民の生き残りをかけて人生を送らざるを得なかったと思われます。何度も窮地に追い詰められ死と直面することもありました。孔子の信念は、武力ではなく知力で国を救うことでした。そして、そのために、生涯のすべてをかけました。
 この孔子のぶれない人生は、その後中国だけでなく多くの国々の指導者を魅了し続け、現代人にまで脈々と受け継げられてきました。
 しかし、一方では今でも、地球上のいたるところで、きな臭い地域が存在します。今すぐにでも紛争が勃発しても不思議ではありません。原始時代ならともかく、これだけ社会が発展したにもかかわらず、なぜ、このような弱肉強食の時代が続くのでしょうか。私たちは真摯に、孔子の教えに耳を傾ける時代を迎えているように思われます。

◆流転する中で、組織と個人の唯一の生き残り策は変化に適応すること、そして、反する行為は必ず衰退へと誘われる。
 進化論で有名なイギリスのダーウインの言葉が思い出されます。
 流転する世界で、太古の昔から「生き残ってきたのはそれが強かったからではなく、賢かったわけでもない。生き残った唯一の理由は流転する環境への適応力が備わっていたから」という言葉です。
 まさかと思われるような企業が企業存亡の危機に直面し、大幅なリストラを断行しなければならなくなったり、企業そのものの存続が不可能になったりすることがあります。その原因をたどるとあらゆる経営の仕組みやノウハウが陳腐化して知っていて、その結果その企業が提供する商品やサービスが顧客から見向きもされなくなってしまっている状態に陥っているのです。この状態は今に始まったことではありません。世の中は秒速で変化し続けています。この変化に即応するための社内の陳腐化防止の仕組みや意識の欠如が最悪の悲劇を生み出してしまっているのです。

 論語の教え40: 「悪しき慣行は、「義」を見て為さざることに原因がある」

◆「悪しき慣行」はどこにでもある
 どんな組織にも、悪しき慣行は存在すると言っても言い過ぎではありません。いわゆる公式と非公式のダブルスタンダードが存在しているのです。
 「私の所属する組織には悪しき慣行などというものは存在しません」という人に、私は、何人にも出会いました。ところが、会社に伺ってみると就業規則とは異なる就業形態だったり、慢性化する時間外労働が現場で行われていたり、喫煙場所でないところで、吸殻が散らかっていたりします。設立後時間が経過している組織であればあるほど悪しき慣行が複雑に絡み合って存在していいます。
 最初どの組織でも、組織編成当初は正式な一つのルールでスタートします。
 ところが、時間が経つにしたがって、だんだんと運用が緩くなってきます。緩くなった瞬間は、まだ。目立ちませんから誰も気に留めません。気が付いた人がいたとしても注意する勇気がありませんから見過ごしてしまいます。注意することによって、自分だけが悪者にされたくないとの防衛本能が働くからです。
 それぞれの組織の風土にもよりますが、慣行化するまでに三か月くらいかかります。長くなればなるほどその慣行は強固になります。要するに、修正して正規の状態に戻るまでに時間がかかるということです。通常、慣行化した時間と正常化する時間はほぼ等しいと言われています。
 組織は生き物です。自然人の生活習慣病によく似ています。悪しき慣行が軽微な時は全体への影響も軽微ですが、悪しき慣行が進んで一つの慣行が二つ以上に進み、さらにそれらの慣行が絡み合う状態になると正常化することが極めて困難な状態になります。
 それは、あたかも生活習慣病の代表的な病である糖尿病が他の生活習慣病との合併症を引き起こすのとよく似ています。

◆なぜ「悪しき慣行」が蔓延(はびこ)るのか
 第一の理由は、自分たちの職場なのに、他人事(ひとごと)にしてしまうからと思われます。前述したように、自分に何のメリットもないことで、同僚や上司と部下から憎まれたくないとの思いが強いからです。憎まれるくらいなら見なかったことにしようということになります。ここまでなら、まだ許せることになりますが、ひどいのは管理職が見て見ぬふりをしているケースです。本来、元のルールに戻す責任も権限も持っている管理職が見て見ぬふりをしているのは、温床で黴(かび)を増殖しているようなものです。瞬く間に職場全体に悪しき慣行が広がります。絶対にあってはならないことです。
   
 第二の理由は、経営幹部や管理職自ら悪しき慣行作りをしているケースです。このことも絶対あってはならないことですが、現実には多く発生しています。私はこの現象を称して「川の水は下流から濁らない」と言っています。悪しき慣行でがんじがらめになっている企業では、会議や約束の時間に平気で遅れるケースや汚職などで公私混同する場合では、上位職位が率先してルール違反をしています。上位職位ほどすべてに公正でなければならないとこの論語では至る所で孔子も説いていますし他の高弟も語っています。しかしながら、古代から現代までこの悪行は直される兆しすら見えていません。
 人間の最大の弱さだと思います。
  
◆どうすれば「悪しき慣行」を排除(はいじょ)できるのか
 悪しき慣行を排除する対策は消火活動によく似ていると思われます。
 最大の対策は「予防策」です。「火事を起こさせない」ことと同様に「悪しき慣行」を起こさせない対策が最大の防御策だということです。
 予防策では啓発と訓練です。特におこりやすい部署に集中して啓発活動を行うとともに訓練を行うことが大切です。鎖でも、人間関係でも弱いところが切れます。
 組織でいえば職場のモラールが低いところ、管理職のリーダーシップが弱いところに悪しき慣行が生まれる土壌があります。ここに、集中的に啓発と訓練を実施します。
 これらの対策を講じてもすべてが防ぎ切れるかというとそうではありません。いくら完璧を追及しても実現するのは不可能です。
 不幸にして、悪しき慣行が生じていることが発覚したら、その場で直ちに軌道修正することが絶対に必要です。ここで、ためらいが生じてしまったらせっかくのチャンスを見逃すことになってしまいます。ここで、一念発起「義を見て為さざるは勇なきなり」との言葉を体現してほしいものです。(了)


論語に学ぶ人事の心得第40回 「侠(きょう)の精神の真髄は、義を見て、勇気をもって為すことである」

孔子行教像 出典:Bing

 本稿は第三篇「為政」の最終項です。為政24項目の閉めに相応しい内容だと思われます。
 誰の手助けも必要としない、どうでもいいことに口出ししたがるのに、手助けが欲しい大切な事柄に接した時に逃げ腰になったり、しり込みする人がいます。
 そんな人がリーダーだったとしたらだれもその人についてゆこうと思わないでしょう。
 侠(きょう)の精神はこれらの人たちと真逆の精神で義を貫く人たちです。
 本稿で、孔子は自分の先祖でもないのに、有力者からと言って祀るのは有力者をおもねることで卑怯なことだと断罪しました。これこそ、義に反する行為だと厳しく批判したのです。
 「義(ぎ)を見て爲(な)さざるは、勇(ゆう)無き也」というのは現代の社会でも用いられ、格言として定着しています。

 為政2-24「子曰(いわ)く、其(そ)の鬼(き)に非(あらず)ずして、之(これ)を祭(まつ)るは、諂(へつら)ひ也(なり)。義(ぎ)を見て爲(な)さざるは、勇(ゆう)無き也」

 先生は言われた。「其(そ)の鬼(き)に非(あらず)ずして、之(これ)を祭(まつ)るは、諂(へつら)ひ也(なり)」とは、自分の先祖の霊魂でもないのに祀るのは諂(へつら)いである。「義(ぎ)を見て爲(な)さざるは、勇(ゆう)無き也」正義にかなった事件に出くわして真っ先に行動しないのは勇気のない人間である。

 論語の教え41: 「悪しき慣行は、「義」を見て為さざることに原因がある」

◆「悪しき慣行」はどこにでもある
 どんな組織にも、悪しき慣行は存在すると言っても言い過ぎではありません。いわゆる公式と非公式のダブルスタンダードが存在しているのです。
 「私の所属する組織には悪しき慣行などというものは存在しません」という人に、私は、何人にも出会いました。ところが、会社に伺ってみると就業規則とは異なる就業形態だったり、慢性化する時間外労働が現場で行われていたり、喫煙場所でないところで、吸殻が散らかっていたりします。設立後時間が経過している組織であればあるほど悪しき慣行が複雑に絡み合って存在していいます。


悪しき慣行像:出典Bing


 どの組織でも、組織編成当初は正式な一つのルールでスタートします。
 ところが、時間が経つにしたがって、だんだんと運用が緩くなってきます。緩くなった瞬間は、まだ。目立ちませんから誰も気に留めません。気が付いた人がいたとしても注意する勇気がありませんから見過ごしてしまいます。注意することによって、自分だけが悪者にされたくないとの防衛本能が働くからです。
 それぞれの組織の風土にもよりますが、慣行化するまでに三か月くらいかかります。長くなればなるほどその慣行は強固になります。要するに、修正して正規の状態に戻るまでに時間がかかるということです。通常、慣行化した時間と正常化する時間はほぼ等しいと言われています。
 組織は生き物です。自然人の生活習慣病によく似ています。悪しき慣行が軽微な時は全体への影響も軽微ですが、悪しき慣行が進んで一つの慣行が二つ以上に進み、さらにそれらの慣行が絡み合う状態になると正常化することが極めて困難な状態になります。
 それは、あたかも生活習慣病の代表的な病である糖尿病が他の生活習慣病との合併症を引き起こすのとよく似ています。

◆なぜ「悪しき慣行」が蔓延(はびこ)るのか
 第一の理由は、自分たちの職場なのに、他人事(ひとごと)にしてしまうからと思われます。前述したように、自分に何のメリットもないことで、同僚や上司と部下から憎まれたくないとの思いが強いからです。憎まれるくらいなら見なかったことにしようということになります。ここまでなら、まだ許せることになりますが、ひどいのは管理職が見て見ぬふりをしているケースです。本来、元のルールに戻す責任も権限も持っている管理職が見て見ぬふりをしているのは、温床で黴(かび)を増殖しているようなものです。瞬く間に職場全体に悪しき慣行が広がります。絶対にあってはならないことです。
   
 第二の理由は、経営幹部や管理職自ら悪しき慣行作りをしているケースです。このことも絶対あってはならないことですが、現実には多く発生しています。私はこの現象を称して「川の水は下流から濁らない」と言っています。悪しき慣行でがんじがらめになっている企業では、会議や約束の時間に平気で遅れるケースや汚職などで公私混同する場合では、上位職位が率先してルール違反をしています。上位職位ほどすべてに公正でなければならないとこの論語では至る所で孔子も説いていますし他の高弟も語っています。しかしながら、古代から現代までこの悪行は直される兆しすら見えていません。
 人間の最大の弱さだと思います。
  
◆どうすれば「悪しき慣行」を排除(はいじょ)できるのか
 悪しき慣行を排除する対策は消火活動によく似ていると思われます。
 最大の対策は「予防策」です。「火事を起こさせない」ことと同様に「悪しき慣行」を起こさせない対策が最大の防御策だということです。

 予防策では啓発と訓練です。特におこりやすい部署に集中して啓発活動を行うとともに訓練を行うことが大切です。鎖でも、人間関係でも弱いところが切れます。
 組織でいえば職場のモラールが低いところ、管理職のリーダーシップが弱いところに悪しき慣行が生まれる土壌があります。ここに、集中的に啓発と訓練を実施します。
 これらの対策を講じてもすべてが防ぎ切れるかというとそうではありません。いくら完璧を追及しても実現するのは不可能です。
 不幸にして、悪しき慣行が生じていることが発覚したら、その場で直ちに軌道修正することが絶対に必要です。ここで、ためらいが生じてしまったらせっかくのチャンスを見逃すことになってしまいます。ここで、一念発起「義を見て為さざるは勇なきなり」との言葉を体現してほしいものです。(了)


論語に学ぶ人事の心得第39回 「先人の取り組んだ為政を学べば、千年後の社会でも推測できる」

子張像:国立故宮博物館蔵

 本稿は、子張と孔子との対話です。子張は以前にも登場した師とは48歳も年の差がある若手の才人です。孔子が73歳でこの世を去りましたから、かりに、本稿が孔子70歳ころの対話だとしたら子張は22歳の若者です。
 一般的には、どんなに優秀な人であったとしても22歳でこの世の中を分かるはずもありません。ましてや、この世の行く末を見通せるはずもありません。
 若いがゆえに、このようなある意味乱暴な質問を、師に甘えて投げかけたのでしょう。 
 しかし、師は子張の質問を真剣に受け止め、以下のように極めて為政の本質を突いた答えをしたのでした。
 師の教えを子張はどの程度、理解できたかどうかは分かりませんが、孔子は、世の中の変化とともに「変えてゆくもの」と「変えてはならないもの」を見極めることが時代の先を読むことだとその大切さを説いているのです。

 為政2-23「子張問う、十世(じっせい)知るべきや? 子曰(いわ)く、殷(いん)は夏(か)の礼に因(よ)る、損(ひき)益(たし)する所、知る可きなり。周(しゅう)は殷(いん)の礼に因(よ)る。損(ひき)益(たし)する所(ところ)知るべきなり。其の或(ある)いは周(しゅう)に継ぐ者は、百世(ひゃくせい)と雖(いえど)も知るべきなり。」

 「子張問う、十世(じっせい)知るべきや?」とは、子張が孔子に質問した。「十世代さきの王朝を予知することが出来ますか」と。孔子は以下のように答えた。「殷(いん)は夏(か)礼に因(よ)れり、損(ひき)益(たし)する所知る可きなり」とは殷(いん)は夏(か)の礼法制度を受け継いだ。増したり減らしたりして変更を加えたところは察知できるはずだ。「周(しゅう)は殷(いん)の礼に因(よ)れり、損(ひき)益(たし)する所(ところ)知るべきなり」とは周(しゅう)は殷(いん)の礼法制度を受け継いだが、場合によって改変した所は分かっている。「其れ或(あるい)は周(しゅう)に継ぐ者あらば、百世(ひゃくせい)と雖(いえど)も知るべきなり」とは、先の時代も周を受け継ぐだろうから、同じようにして百世代後(のち)の世までも推測することは可能だ」

 論語の教え40: 「万物は流転する。流転の法則を見極めることが後世を予見することだ」
 万物が流転すると言ったのは古代ギリシャの哲学者ヘラクレイトスです。生没年不詳ですが,紀元前500年ころがその活動の最盛期といわれています。東西文化の際立った隔たりの中で、奇しくもこの同時代の中国で、孔子が活動していました。
 誰の言葉か不詳ですが、「この世の中の物はすべて変化する。変化しない唯一のものは変化するということだ」との格言も古くから伝えられています。

◆流転する中で、生き残ったもの、そして、これからも決して無くならないもの。
 西の聖書、東の論語と言われるほど、多くの人に親しまれてきたのには理由(わけ)があります。それは、誰であれ、論語に生きるための指針が示されているからです。
孔子の教えは、儒教に集大成されました。根本経典は五常(仁、義、礼、智、信)の徳性を拡充することにより、父子、君臣、夫婦、長幼、朋友の 五倫 の道をまっとうすることです。

 「仁」とは、人間が守るべき理想の姿です。
 自分の生きている役割を理解し、自分を愛すること、そして身近な人間を愛し、ひいては広く人を愛することです。義・礼・智・信それぞれの徳を守り、真心と思いやりを持ち誠実に人と接するのが、仁を実践する生き方です。

 「義」とは、人の歩んでいく正しい道のことです。
 義をおろそかにすることは、道を踏み外すことになります。仁を実践する基本として、義を貫くことが必要です。本当に人を愛し思いやる生き方は、正義を貫いてこそ成り立つのです。

 「礼」とは、人の世に秩序を与える礼儀礼節は、仁を実践する上で大切なことです。
 親や目上の人に礼儀を尽くすこと、自分を謙遜し、相手に敬意を持って接することが礼、場合に応じて自分を律し、節度を持って行動することが節といえます。礼節を尽くして人を訪ねるという意味の「三顧の礼」という故事があります。この言葉の元は、三国志でした。

 「智」とは、人や物事の善悪を正しく判断する知恵です。
 さまざまな経験を積むうちに培った知識はやがて変容をとげ、智となって正しい判断を支えます。より智を高めるには、偏りのない考え方や、物事との接し方に基づいた知識を蓄えることが必要です。

 「信」とは、心と言葉、行いが一致し、嘘がないことで得られる信頼です。
 嘘のために一度損なわれた信頼を、取り戻すのは難しいことです。たとえ、仁なる生き方を実践していても、人に信頼されないことには社会で生きていけません。信頼は、全ての徳を支えるほどに大切なのです。

◆流転する中で、繰り返されるもの、そして一刻も早く無くしたいもの。
 それは何と言っても戦争と犯罪行為ではないかと思われます。
 戦争の起源は1万2千年前までさかのぼれると言いますから、人類の文明の起源とともに戦争が繰り返されてきたと言えるともいます。人類史は戦争の歴史でもあったのです。


ダーウイン像 出典:Bing

 まさに、孔子が生きた春秋時代はそんな暗い時代でした。数百年続いた殺戮と群雄割拠の時代でした。弱小国「魯国」の出身者であったので、魯国と国民の生き残りをかけて人生を送らざるを得なかったと思われます。
 何度も窮地に追い詰められ死と直面することもありました。孔子の信念は、武力ではなく知力で国を救うことでした。そして、そのために、生涯のすべてをかけました。
 この孔子のぶれない人生は、その後中国だけでなく多くの国々の指導者を魅了し続け、現代人にまで脈々と受け継げられてきました。
 しかし、一方では今でも、地球上のいたるところで、きな臭い地域が存在します。今すぐにでも紛争が勃発しても不思議ではありません。  
 原始時代ならともかく、これだけ社会が発展したにもかかわらず、なぜ、このような弱肉強食の時代が続くのでしょうか。私たちは真摯に、孔子の教えに耳を傾ける時代を迎えているように思われます。

◆流転する中で、組織と個人の唯一の生き残り策は変化に適応すること、そして、反する行為は必ず衰退へと誘われる。
 進化論で有名なイギリスのダーウインの言葉が思い出されます。
 流転する世界で、太古の昔から「生き残ってきたのはそれが強かったからではなく、賢かったからでもない。生き残った唯一の理由は流転する環境への適応力が備わっていたからだ」という言葉です。進化論という途方もない時間を要する生物の生きるための知恵を研究した学者ならではの卓見です。
 生物も組織も同じような運命を辿るようです。大きな社会的変動が起こっていないのに、まさかと思われるような企業が企業存亡の危機に直面し、大幅なリストラを断行しなければならなくなったり、企業そのものの存続が不可能になったりすることがあります。
 この最強企業に何が起こったのでしょうか。ライバルが現れて、競争に敗れたわけではありません。それなのに、厳しい現実が迫っていました。
 その原因をたどるとあらゆる経営の仕組みやノウハウが陳腐化してまっていて、その結果その企業が提供する商品やサービスが顧客から見向きもされなくなってしまっている状態に陥っていたのです。この状態は今に始まったことではありません。世の中は秒速で変化し続けています。この変化に即応するための社内の陳腐化防止の仕組みや意識の欠如が最悪の悲劇を生み出してしまったのです。
 私たちは未来を正確に予見することは困難です。しかし、未来に起こりうる兆候を察知することは可能です。それには個人であれ、組織であれ、危機へのアラームシステムを備え避けられない危機への準備を怠らないことだと思います。(了)


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