論語に学ぶ人事の心得第63回 「孔子はいつも上から見下ろす目線ではなく、誰に対しても相手の目線に合わせて対応した」

 本項は、孔子が魯国の宮廷楽団長に、音楽について自分の考えを語って確認する場面です。この孔子の音楽観に大師(たいし)がどのように対応したのかの記述はありません。おそらく、孔子の音楽観に驚いたのではないでしょうか。孔子は自らも琴を奏でたように音楽的資質を持ち合わせた人でした。優れた音感の持ち主であったことは事実でしょう。祭りや儀式の舞や踊りには必ず音響が伴います。


琴を弾く孔子像 出典:Bing

昔も今もそのことに変わりがありません。孔子は弟子にも音楽を嗜むよう指導したと伝えられています。この項で大切なことは孔子の態度です。
 何事に対しても謙虚であるということです。孔子はあくまでも思想家であり政治家です。音楽を職業としていません。そこで、大師(たいし)という音楽を職業とする専門家に確認をしていることです。知ったかぶりという言葉があります。「知ったかぶり」は、そのことについて知らない、または詳しくないにも関わらずあたかも知っているかのような素振りをする事を意味しています。孔子の態度とは真逆のことです。私たちもこのような孔子の低姿勢に学び常に謙虚な態度をとり続けましょう。

 八佾篇第3―23「子、魯の大師(たいし)に樂(がく)を語りて曰く、樂(がく)は其(そ)れ知る可(べ)き也(なり)。始めて作(おこ)すに翕如(きゅうじょ)たり。之(これ)を從(はなち)て純如(じゅんじょ)たり、皦如(きょうじょ)たり。、繹如(えきじょ)たり。以(もっ)て成る。」

 「子、魯の大師(たいし)に樂(がく)を語りて曰く」とは、師は魯の楽団長に音楽について語られた。「樂(がく)は其(そ)れ知る可(べ)き也(なり)」とは私は音楽をこのように理解しています。「始めて作(おこ)すに翕如(きゅうじょ)たり」とは最初に打楽器が鳴り響き、「之(これ)を從(はなち)て純如(じゅんじょ)たり」とは次いですべての楽器が調和して合奏され、「皦如(きょうじょ)たり」とはさらにそれぞれの楽器が順を追って明瞭になり、「繹如(えきじょ)たり」とはそれぞれの楽器の演奏が連綿と続いてゆく。「以(もっ)て成る」とはこのようにして完結する。

 論語の教え63:「何事にも知ったかぶりをせず、他者に謙虚な姿勢で聞く・聴く・訊く耳を持とう」


◆何人も「裸の王様」になってはいけない
 「裸の王様」は、デンマークの童話作家ハンス・クリスチャン・アンデルセンが1837年に発表した童話です。人間心理の弱点をとらえたアンデルセンの代表作の1つです。
 そのあらすじは「ある国に、新しい服が大好きな、おしゃれな皇帝がいました。ある日、城下町に二人組の男が、仕立て屋という触れ込みでやってきました。彼らは「自分の地位にふさわしくない者や、手におえないばか者」の目には見えない、不思議な布地をつくることができるというのです。噂を聞いた皇帝は2人をお城に召し出して、大喜びで大金を払い、彼らに新しい衣装を注文しました。
 彼らはお城の一室に織り機を設置し、さっそく仕事にかかります。皇帝が大臣を視察にやると、仕立て屋たちが忙しく織っている「ばか者には見えない布地」とやらは大臣の目にはまったく見えず、彼らは手になにも持っていないように見えます。大臣はたいへん困るのですが、皇帝には自分には布地が見えなかったと言えず、仕立て屋たちが説明する布地の色と柄をそのまま報告することにしました。その後、視察にいった家来はみな「布地は見事なものでございます」と報告します。最後に皇帝がじきじき仕事場に行くと「ばか者には見えない布地」は、皇帝の目にもさっぱり見えません。皇帝はうろたえるが、家来たちには見えた布が自分に見えないとは言えず、布地の出来栄えを大声で賞賛し、周囲の家来も調子を合わせて衣装を褒めました。
 そして、皇帝の新しい衣装が完成します。皇帝はパレードで新しい衣装をお披露目することにし、見えてもいない衣装を身にまとい、大通りを行進しました。集まった国民も「ばか者」と思われるのをはばかり、歓呼して衣装を誉めそやします。
 その中で、沿道にいた一人の小さな子供が、「だけど、なんにも着てないよ!」と叫び、群衆はざわめいた。「なんにも着ていらっしゃらないのか?」と、ざわめきは広がり、ついに皆が「なんにも着ていらっしゃらない!」と叫びだすなか、皇帝のパレードは続きました」
国中が詐欺師に引っかかったと言うことです。

 この物語が私たちに残してくれた教訓は次の通りです。
 第一に価値を正しく判断できる能力を持たねばならないことです。
 第二に同調圧力に屈せず正しいことを言う勇気を持つことです。
 第三にイエスマンばかりをそばに置くなということです。
 第四にイエスマンがはびこる風土を創るなということです。


 権力者が人の意見を聞かなかったり、真実を報告すると報告した人を処罰すると誰も真実を伝えなくなります。もし、そのような状況になれば権力者は無力です。正しく判断する情報が入らなくなるばかりではなく、組織の命令指揮系統が断絶することになります。これでは組織が機能不全に陥ります。それは国家であれ、企業であれ存続することができません。自然人が脳梗塞を起こしたのと同じです。リーダーは、まさに裸の王様になってしまいます。

◆積極的傾聴こそ情報収集の決め手
 「積極的傾聴(Active Listening)」は、米国の心理学者でカウンセリングの大家であるカール・ロジャーズ(Carl Rogers)によって提唱されました。
 ロジャーズは、自らがカウンセリングを行った多くの事例を分析し、カウンセリングが有効であった事例に共通していた、カウンセラーの3要素として「共感的理解」、「無条件の肯定的関心」、「自己一致」をあげ、これらの人間尊重の態度に基づくカウンセリングを提唱しました。
具体的に言えば、「共感的理解」に基づく傾聴とは、聴き手が相手の話を聴くときに、相手の立場になって相手の気持ちに共感しながら聴くことです。
 「無条件の肯定的関心」を持った傾聴とは、相手の話の内容が、たとえ反社会的な内容であっても、初めから否定することなく、なぜそのようなことを考えるようになったのか関心を持って聴くことです。「自己一致」に基づく傾聴とは、聴く側も自分の気持ちを大切にし、もし相手の話の内容にわからないところがあれば、そのままにせず聴きなおして内容を確かめ、相手に対しても自分に対しても真摯な態度で聴くことです。
 以上のことはカウンセリング場面の内容ですが、これらの三要素は私たちのすべての生活場面で活用することができます。公的生活の上司と部下の関係でも、家庭生活の親子の関係でもとても有効に機能します。ぜひ、意識して活用すれば世界が変わること請け合いです。

◆穣(みのる)ほど頭を垂れる稲穂かな
 若い緑色の稲は、まっすぐに天に向かってすくすくと成長し、やがて実を付ける稲穂に成長します。更に、稲穂の中の実(お米)が成長してくると、そのしっかりとした実の重みで自然と稲穂の部分が垂れ下がり、美しい黄金色になっていきます。その過程では、強い風雨にさらされたり、冷たい日や暑い日を乗り越えなければ、立派な稲に成長し豊かな実を付けることはできません。この状態を人間に例えて、若い頃はまっすぐに上だけを向いて立派に成長し、色々な荒波や苦労を乗り越え、立派な人格を形成した人物は、偉くなればなるほど、頭の低い謙虚な姿勢になっていくという意味として表現しています。
 一方で、稲穂の中身が立派なお米に育っておらず、実がスカスカのお米だった場合には重みがなく軽い稲穂になってしまいます。そんな稲穂は、見た目は立派な稲穂に見えますが、穂が垂れるほどの重みがなく、頭が下がってはいません。
 稲のこの生態の例えるところは、見た目や肩書きは立派だが、中身が伴っていない人は、虚勢を張って威張るだけの小物であり、人格者とは程遠い人物であるという事を示しています。
 孔子は穣ほど頭を垂れる人でした。相手がどんな地位にいる人でも接する態度は一貫していました。(了)


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