論語に学ぶ人事の心得第62回 「人間の真の価値は仕事ができることでなく、仁者であることだ」

管仲(かんちゅう)像出典:ウイキペディア

 本項は孔子より100年前に活躍した春秋時代初期の斉(せい)国の名宰相と言われた管仲(かんちゅう)の器量に対する孔子の考えを述べたものです。管仲(かんちゅう)は、君主桓公(かんこう)に仕え、斉国を覇者に仕立て上げました。
 管仲(かんちゅう)は、斉国では政治の中心的役割を果たしました。数々の改革を成し遂げ、斉国の発展に貢献しました。名臣の一人です。孔子は管仲(かんちゅう)の政治的力量に対しては、高い評価をしておりました。しかし、ここでは誰もが評価している管仲(かんちゅう)を厳しく批判しています。なぜでしょうか?それは管仲(かんちゅう)が礼節を弁(わきま)えていないと孔子は判断したからです。孔子は管仲(かんちゅう)だけでなく、誰に対しても自分の立場を超えて礼節を弁(わきま)えない人に対してはとても厳しく糾弾しました。例えば、魯国の三大貴族であった三桓氏(さんかんし)に対しても同様でした。臣下であるのに君主の儀式をまねた行為に激しい憤りを感じています。本編八佾(はちいつ)の冒頭には、八佾(はちいつ)は君主のみに許された先祖を敬うために奉ずる舞ですが、こともあろうに季孫氏は自分の庭先で執り行いました。これにはとても我慢できないと記述されています。礼を弁(わきま)えないことに対する怒りは孔子の一貫した姿勢です。

 八佾篇第3―22「子曰く、管仲(かんちゅう)の器(うつわ)は小さき哉(かな)。或(あ)るひと曰く、管中(かんちゅう)儉(けん)なるか。曰く、管氏に三歸(さんき)有り。官の事攝(か)ねず、焉(いずく)んぞ儉(けん)なるを得ん。然(しか)らば、則(すなわ)ち、管仲(かんちゅう)は禮(れい)を知れるか。曰く、邦君(ほうくん)は樹(じゅ)して門を塞(ふさ)ぐ、菅氏(かんし)もまた樹(じゅ)して門を塞ぐ。邦君(ほうくん)は兩君(りょうくん)の好(よしみ)を爲(な)すに反坫(はんてん)有り、菅氏(かんし)もまた反坫(はんてん)有り。菅氏にして、禮(れい)を知れば、孰(だれ)か禮を知らざらん。」

 「子曰く、管仲(かんちゅう)の器(うつわ)は小さき哉(かな)」とは師はいわれた管仲(かんちゅう)の器量は小さいな。「或(あ)る人曰く、管仲(かんちゅう)儉(けん)なるか」とはある人が師に尋ねた。管仲(かんちゅう)は倹約かだったのですか。
 「曰く、管氏に三歸(さんき)有り。官の事攝(か)ねず、焉(いずく)んぞ儉(けん)なるを得ん」
 とは、師は言われた。管仲(かんちゅう)には三人も夫人がいて、配下の役人にもいくつかの仕事を兼任させなかった。どうして倹約かといえようか。
 「然(しか)らば、則(すなわ)ち、管仲(かんちゅう)は禮(れい)を知れるか」とはある人がまた師に尋ねた。管仲(かんちゅう)は礼を心得ていたのですか。
 「曰く、邦君(ほうくん)は樹(じゅ)して門を塞(ふさ)ぐ、菅氏(かんし)もまた樹(じゅ)して門を塞ぐ。」とは師は答えた。君主は石の衝立を立てて門内が見えないようにするが管仲(かんちゅう)もまた石の衝立を立てて門内が見えないようにした。
 「邦君(ほうくん)は兩君(りょうくん)の好(よしみ)を爲(な)すに反坫(はんてん)有り、」とは君主は他国と友好を結ぶにあたり、献酬の杯をおく台を設ける。
 「菅氏(かんし)もまた反坫(はんてん)有り」とは管仲(かんちゅう)もまた献酬の杯をおく台を設けた。
 「菅氏にして、禮(れい)を知れば、孰(だれ)か禮を知らざらん」とは管仲(かんちゅう)が礼を心得ているというなら、礼を心得ていない人間はどこにもいないことになる。

論語の教え62:「能力ある人物と礼節を弁(わきま)えた人物のどちらを用いるか」
◆責任ある地位に就けばつくほど徳を磨け
 地位が高くなればなるほど仁者でなければならないと孔子は事あるごとに説いています。管理職のように小さな組織なら個性や能力でリーダーが務まるかもしれません。しかし、事業や企業を代表するような責任ある立場では徳がないと務まりません。


 それでは徳とは何でしょうか。徳は人間の道徳的卓越性を表します。孔子の始めた儒教では五常五倫のことを言います。具体的には仁・義・礼・智・信のことです。これまでにも何度も出てきましたので覚えている方がいるかもしれません。
 論語の主柱となる概念です。ここで、再度意味を確認しましょう。
 五常とは?
「仁」とは人を思いやることです。
「義」とは利欲にとらわれず、なすべきことをすることです。
「礼」とは「仁」を具体的な行動として表したものです。
「智」とは道理をよく知り得ている人のことです。
「信」とは友情に厚く、真実を告げること、約束を守ること、誠実であることです。

 また、五倫とは?「父子の親」、「君臣の義」、「夫婦の別」、「長幼の序」、「朋友の信」を言います。
 「父子(おやこ)の親」とは父(おや)と子の間は親愛の情で結ばれなくてはなりません。
 「君臣の義」とは君主と臣下は互いに慈(いつく)しみの心で結ばれなくてはならないといことです。
 「夫婦の別」とは夫には夫の役割、妻には妻の役割があり、それぞれ異なります。
 「長幼の序」とは年少者は年長者を敬い、したがわなければならないと言うことです。
 「朋友の信」とは友はたがいに信頼の情で結ばれなくては友とはいません。
 これらの言葉や概念は現代風に言うとやや堅苦しく、理屈っぽく見えます。しかし、私たちには揺るぎない究極の到達点が必要であることも事実です。リーダーでなくても到達点に向けて一歩でも近づけば、必ず世の中が変わると思います。努力してみてください。

◆真に任せられる人間は仕事だけできる人物ではない
 誰しも人は能力の向上を目指して努力して生きています。一方、私たちは一人で生きてゆくことができません。必ず、だれかとの関(かかわ)りが無ければ、どんなに優れた人であっても何もできません。自己の能力向上とともに周囲の人間関係の絆が深くなることでいい仕事ができるのです。その人間関係を築くプロセスの中で周りとの貸し借りの論理が発生します。貸しとは恩を売ることであり、借りとは恩を売られることです。この論理でいえば、仕事のできる人は多くの人に貸しを作ることができます。つまり恩を売ることができるのです。しかし、このできる人は人から信頼されることとは何の関係もありません。また、責任ある事業や組織を任せられるかどうかとも関係がありません。まわりと強調しながら確実に貸し借りの論理を均衡させている人こそ信頼されています。
 職責を果たすことは仕事の達成度や成果の多寡だけではありません。最も大切なことはその人が信用できるかどうかです。

◆企業永続的繁栄の真髄は仁者を育成することにある
 企業は、よくゴーイングコンサーン(継続する存在)と言われます。それは社会的存在だからです。企業も自然人と同じように老化します。自然人との決定的な違いは企業には寿命が無いことです。その時代に、ふさわしい顧客価値を提供し続ければ永遠に生き続けることができるのです。1000年以上も生き続けている企業がこの世の中にいます。さらに、業界がとっくに消滅した音楽のレコード会社やレコード針を創っている会社も形を変えて存在しますし、写真のフィルム会社に至っては今や製薬会社として隆盛を誇っている会社もあります。
 反面、一時は飛ぶ鳥を落とすと言われた会社が今や見る影もなく、買収されたり、倒産した企業があります。この決定的な違いがどこから起こってきているでしょうか?
 それには二つの原因があるあるように思われます。二つとも事業の後継に関する問題です。
 第一は事業の発展させた経営者は自分が有能なため事業を巨大化させたのですが、後継者の育成をしてこなかった経営者です。自分が有能すぎてお眼鏡にかなう人を見つけるまえに自分が高齢者になってしまったケースです。自己過信型の経営者です。
 第二は企業を私物化した経営者です。身内の後継者を早期に決めて地位につけているのですが形だけです。実質は自分が経営の実権を握っている経営者です。これは一番多いケースです。私物化したいのなら企業を大きくしたり、株式を公開しなければよいのですが、地位も名誉も財力も得たいため動機不純で公開しますが、企業の文化や風土は惨憺たるものです。
 企業をつぶしているのは社長だと断言している元経営者がいます。経営の神様と言われた松下幸之助氏です。世の経営者とりわけ社長に聴かせたい言葉です。(了)


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