論語に学ぶ人事の心得第59回 「君主は臣下に何を求め、臣下を統率するにはどうすればよいのだろうか」

孔子像 出典:Bing

 本項は魯国の君主「定公(ていこう)」との対話です。
 この頃の孔子は君主の最側近にまで上り詰めていました。魯国の重臣の一人です。孔子は3000人にも及ぶ弟子が慕っていた偉大な教育者もありました。さらに、儒学を開祖した思想家でもあります。しかし、研究生活に籠(こも)るような単なる学究ではありません。
 この時点では、政治という結果を問われる世界に足を踏み入れ、政治闘争の日々を送っていました。本編八佾(はちいつ)では、他の項で、やっかみや妬(ねた)みの場面が登場します。孔子はこれらの心無い人との軋轢に対しても、心が乱れることなく、我が礼法の道を淡々と進みます。
 定公(ていこう)は魯の第26代君主でした。名は宋と言います。第23代君主襄公の子で25代君主昭公(しょうこう)の弟です。家老の闘鶏が元になったいさかいで、国外逃亡した兄の昭公が晋の乾侯で客死すると、その後を受けて魯国の君主となりました。在位は15年でした。孔子は定公(ていこう)に抜擢され、大臣ポストの一つである大司寇に就任しました。
 この時代の国の行政組織は六卿という6人の最高官が行政を取り仕切っていました。大司寇(だいしこう)というのは刑罰を取り仕切る法務大臣のような重要な地位です。他にどのような官職があったのかというと以下のとおりです。大宰(たいさい)は6官の長を兼ね、その際の官名を「冢宰」(ちょうさい)とも言いました。大司徒は教育、人事、土地を掌りました。大宗伯は礼法、祭祀礼を掌りました。大司馬は軍政と兵馬、大司空は土木と工作を担当しました。
 本項では君主が臣下である孔子に教えを乞うています。孔子の掌(つかさど)る司法の話ではありません。国の統治の考えを訊いているのです。まるで、子弟が老師に教えを乞うているような場面です。 
 孔子は明快に質問に応えています。小気味良さすら感じます。

 八佾篇第3―19「定公(ていこう)問う、君、臣を使(つか)い、臣、君に事(つか)うる、之を如何(いかん)。孔子対(こた)えて曰く、君(きみ)、臣を使うに禮(れい)を以(もち)ってし、臣(しん)、君(きみ)に事(つか)うるに忠(ちゅう)を以(もっ)てす。

 「定公(ていこう)問う、君、臣を使(つか)い、臣、君に事(つか)うる、之を如何(いかん)」とは、君主定公(ていこう)は孔子に尋ねた。君主が臣下を用い、臣下が君主に仕えるにはどうすればいいだろうか?と。孔子は答えて言われた。「君(きみ)、臣を使うに禮(れい)を以(もち)ってし、臣(しん)、君(きみ)に事(つか)うるに忠(ちゅう)を以(もっ)てす」とは君主が臣下を用いる際には礼によって用い、臣下が君主に仕えるさいには誠心誠意まごころを尽くしてお仕えすることですと。

 論語の教え59: 「統治の要諦は上位職位が礼を尽くすこと、そうすれば社員は真心をもって返してくれる」

◆上司は部下を尊重すれば、部下は上司に忠義を尽くす
 例え上司であっても、部下だからと言って顎(あご)で使うような傲慢な態度は許されません。上司と部下は基本的に人間の上下の関係ではありません。上司は部下より人間的に優れているわけでなく、両社はそれぞれの役割と責任を果たしているにすぎません。また、部下の功績は上司の功績でもあります。だからこそ、部下が忠義を尽くしてくれることにより、功績をあげてくれたなら、すべてが上司の功績でもあります。このように考えると上司は部下に感謝こそすれ、部下を糾弾することなどありえないことです。
 ところが、上司は業績がいい時には自分の手柄にします。業績が悪くなると手のひらを返したように部下の責任にします。また、業績を上げたくてしょうがない人ほど部下を大切にしない傾向があります。いわゆる、部下をこき使うタイプの上司です。このような上司は部下の不足をあげつらいますが、部下を育てることをしません。これらの上司は、部下から見てすべて見透かされています。どんなにきれいな言葉で部下に懐柔しようとしても部下には通じません。部下は上司と常に一定の心理的距離を確保していますし、上司と異なった価値観で適当に付き合います。情熱をもって上司に仕えようとしませんし、ましてや忠義を尽くすようなことは絶対にありません。部下がよそよそしくなった時には、部下の変化を問うのではなく、自分の変化を自己反省すると自分に非があることがわかります。上司と部下はお互いに鏡で照らし合っているような存在だからです。

◆部下に信頼を求める前に、まず、自ら部下を信頼せよ
 会社の経営者や経営幹部の中には、社員が会社を信頼していないことを公言する人がいます。
 そこで、私はそのような経営者に「あなたは社員を信頼していますか」と訊ねると、大抵の人は、はたと困った顔をします。その心を読み解きますと社員に一方的に信頼を求めていることが明らかです。


 しかも、自分は社員を信頼していないこともありありとしています。事程左様に、相手に一方的に信頼を強要しても信頼関係は成立しません。信頼は双方が信じあうことにより成り立つ関係です。また、社員に信頼してもらいたかったら、まず、経営者が社員を信頼することが先です。
 社員が不正を働いたような事故に遭った経営者の最初の言葉です。「これまでにあれほど信頼して任せていたのに裏切られた」この経営者はどうも「信頼すること」と「放任すること」の区別が理解できていないようです。信頼すればするほど、不正が発生しないよう牽制制度を機能させることに注力する必要があります。
 また、会社の中では部下と信頼関係を築くことができないという人もいます。信頼関係は血族社会の話ばかりではありません。むしろ、血のつながりで成り立っている社会では信頼関係は意識しなくても良いかも知れません。非血族社会にこそ信頼関係を意識して構築する必要があります。私は公的な信頼関係と私的な信頼関係に分けて考えています。公的な信頼関係は築こうと意識しなければ築けません。なぜなら、共同体を離れたら他人だからです。私的な信頼関係は築こうと思わなくても一緒にいることで信頼関係が築けます。なぜなら、それは血を分けた身内だからです。しかし、反道徳的、反社会的行為をすれば、話は別です。公私の両方の関係はともに脆く、たちまち、信頼関係は崩れます。築くのは容易ではありませんが崩れるのは一瞬です。

◆上司から頼られる部下になれ、それには上司に一目を置かれることだ
 本項は君主である定公(ていこう)から孔子に国の統治の仕方を尋ねられています。会社でいえば社長からこの会社の経営をどのようにすればうまくゆくのかを尋ねられたようなものです。会社の社長が部下に対してそのようなことを言うのは、まずありえないことです。君主から問われることは、孔子が君主からも一目を置かれていることの何よりの証拠です。そして、「待っていました」とばかり明快に回答しています。ある意味コンサルタントとクライアントのような関係です。
 人間にはゼネラリストタイプとスペシャリストタイプがいます。孔子のようにオールマイティの人は別ですが、一目置かれるにはスペシャリストになるほうが早道であると思います。「ナロー&ディープ」という言葉があります。文字通り狭く深くということです。自分の得意領域は狭くても深く掘り下げることにより他から抜きんでることができるのです。私は自分の得意領域を定めたら、わき目を触れずに深堀をすることを進めたいと思います。専門領域のない人は単に便利屋として使われるだけです。また、自己の良心に逆らって上司の言いなりになるだけです。
 人生には譲ってはならないことを求められることがあります。その時に専門領域があれば断固として拒否をする勇気が湧いてきます。(了)


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