論語に学ぶ人事の心得第55回 「他人(ひと)が何と言おうが、己(おのれ)の信ずる礼の作法で始祖周公旦に最敬礼する」

大廟 出典:Bing

 「他人(ひと)が何と言おうが、己(おのれ)の信ずる礼の作法で始祖周公旦に最敬礼する」

 中国では、太廟(たいびょう)とはその国の初代君主を祭った施設ですが、墓所ではありません。ここは孔子が敬愛してやまない魯の始祖周公旦を祭った廟(びょう)です。周公旦は周王朝を立国した武王の弟です。魯国はもともと周公旦の封地でした。
 本項で取り上げられている内容はそこでのお参りに対して、孔子に周りから嫌がらせの言葉が投げかけられています。孔子が立派なのは、その嫌がらせに対して、いささかも揺さぶられることなく冷静に受け止め、礼の真の姿を説いているっことです。
 孔子に対する周りの反感や妬みに対して、心を動じることなく対応する孔子の姿を描いています。これまでにも、何回も取り上げられたように孔子の出自は決して良いとはいえませんでした。孔子は庶子でありました。今回は父親の出身地である鄹人(すうひと)、いわゆる田舎者と侮蔑的な呼称を用いてけなされています。

 八佾篇第3―15「子太廟(たいびょう)に入りて、事每(ことごと)に問う。或るひと曰(いわ)く、孰(たれ)か鄹人(すうひと)の子を禮を知ると謂(い)うか。太廟(たいびょう)に入りて事每(ことごと)を問(と)う。子之を聞いて曰(いわ)く、是れ禮(れい)也(なり)。」

 「子太廟(たいびょう)に入りて、事每(ことごと)に問う」とは、師は大廟にお参りされたとき一つ一つ係りの者に尋ねながらふるまわれた。「或るひと曰(いわ)く」とはその光景を見ていた人が言った。「孰(たれ)か鄹人(すうひと)の子、禮を知ると謂(い)うか」とは一体だれがあの鄹(すう)にいた人の息子を礼に詳しいというのか。大廟に参っていちいち質問したというではないか。「子之を聞いて曰(いわ)く、是れ禮(れい)也(なり)」とは、それを伝え聞いた師は「そうすることが礼儀なのだ」と答えた。

 論語の教え55: 「自分が信じる作法で、自信をもって礼を行えば、他人の批判などとるに足らないものだ」

◆他人の批判に踊らされるのは人間ができていない証拠だ
 私たちの行為は他人に批判されないために行うのではありません。目的や目標を達成するために行われるのです。時には他人の無理解で批判にさらされることも覚悟しなければなりません。とりわけ、組織のリーダーの立場にいる人には批判がつきものです。批判されるのが嫌ならリーダーになるなと言ってもいいくらいです。
 リーダーは、また組織の先頭に立たなければならない立場の人です。先頭に立ってリーダーシップを発揮することは批判を乗り越えて目的を達成しなければならない責任があるからです。どんな局面になっても冷静に自分の感情を制御できることがリーダーに求められる最大の資質だと思われます。本項で、孔子が自分の出自や親の出身地のことまで侮蔑されても決して感情的にならず、「大廟でのお参りの仕方をまで批判されても」極めて冷静に対応している姿に感動すら覚えます。
 もし、批判に反論したり、過剰に反応した時には、相手の術中にはまってしまうことを孔子は分かっていたのだと思います。自分のことなら耐えられるけど親のことまで持ち出されると我慢にも限界があると思われる人もいるかもしれません。通常の場合はおそらく反論するかもしれません。しかし、孔子は全く動じることはありません。孔子が多くの弟子から尊崇の念をもって語り継がれてきた真の理由がここにあると思われます。
 さて、ここからは現代の話です。ある政治家が「他者からあること無いことを批判されて反撃したくないのですか」と訊かれて、「そんな些事を一々気にしていたのでは政治はできない。相手には相手の事情があるから。相手に感情をぶつけるのは幼稚なことである。私たちは大人の政治を目指したい」と批判者に理解を示す言葉を返したため、質問者がその政治家を信用するとともに人間の器の大きさを感じたと述懐していました。孔子ほどの人物にならなくともリーダーたるものは度量の大きさで人を魅了することができるのです。


孔子像 出典:Bing

◆賢者は過去に拘束されるのではなく、未来に羽ばたけ!
 過去の桎梏(しっこく)に拘束されるのは愚者です。鳥が天空を舞うように、描けていない未来に羽ばたくのが賢者です。なぜなら、誰も過去を変えることができないからです。とりわけ、過去が自分の心の中に傷となって残ってしまっていると、私たち人間にしか備わっていない未来への可能性すなわち潜在能力の芽を摘んでしまいます。
 私たちは時間という連続の中に生きていいます。過去、現在、未来が個別にあるのではないことは誰でも理解しています。時という概念には時刻(カイロス)と時間(クロノス)という区別があることを、私は最近知りました。時間が水平的であり、時刻は垂直的であるというのです。日々刻々と現在が過去を生み出し、未来と向き合っています。何気なくせわしく刻み続けている秒針の動きの中に、秒針が止まったように永遠に記憶にとどめられるのが時刻です。しかし、それは私たちを拘束するものでは決してありません。未来へはばたくために、決して忘れてはならない梃(てこ)なのです。

◆自己矛盾に陥らなければ、人は挫(くじ)けない。
 私たち人間は「強靭さ」と「脆さ」(もろ)という相反する意思を同一体内に共存させながら生きています。その分水嶺に相当するのが自己矛盾です。自己矛盾とは自己肯定感と自己否定感を共存させていることを言います。要するにつじつまが合わなくなってしまうのです。自己肯定感が高まると人は強靭になります。また、逆に、自己否定感が高まると人は脆くなります。
 自分の言行が辻褄(つじつま)合わなくなると、人は自信を喪失し、何事にも挑戦意欲がなくなるばかりか、生きることそのものに意欲を無くしてしまいます。生きる屍と化してしまうのです。だから、誰であろう自分を裏切らないことです。自己矛盾に陥らなければ絶対に人は崩れません。生きがいをもって生きている人はすべて自分に正直です。孔子はまさに自己矛盾に陥らず天命を全うした人だと言えましょう。(了)


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