論語に学ぶ人事の心得第43回 「人はうわべの格好をつけたとしても中身が整わなければ、すぐ見破られてしまう」

琴を弾く孔子 出典:Bing


 今回は徳の真髄に迫る孔子の話です。「仁」は五常(ごじょう)または五徳(ごとく)とも言われる、需教で説く5つの徳目のことです。これまでにも何回も登場しましたので覚えている方もいると思いますが、仁・義・礼・智・信を指しています。その中でも「仁」は人への思いやりと人間愛を表し、孔子は、仁をもって最高の道徳であると常々のべています。日常生活から遠いものではありませんが、一方では容易に到達できぬものとしています。
 孔子自身も自分は仁者でないとも言っていますがこれは謙遜でしょう。誰だって徳を積んだ人は自らの徳を自慢げに語る人はいません。あくまでも、第三者が評価することです。孔子は自らの実践行動の中から五常を導き出したのです。
 世の中には外見だけで思いやりがありそうに見せる人は多くいます。しかし、そのような軽薄な人物はすぐ見破られてしまいます。音楽についてもそうです。この時代の音楽は社会上の儀礼として正式な行事で執り行われたものです。心のこもらない儀式をいくら執り行っても意味がないと孔子は指摘しているのです。
 八佾篇第3―3「子曰く、人にして仁(じん)ならずんば、禮(れい)を如何(いか)にせん。人にして仁(じん)ならずんば、樂(がく)を如何(いか)にせん。」

 先生は言われた。「人にして仁(じん)ならずんば」とは人間としての誠実な思いやりや愛情を持たないなら、「禮(れい)を如何(いか)にせん」とは礼を学んだとて何になろう。「人にして仁(じん)ならずんば」とは人間としての誠実な思いやりや愛情を持たないなら、「樂(がく)を如何(いか)にせん」とは音楽を学んだとて何になろう。

 論語の教え43: 「私たちは何のために学ぶのか?仁を極めるために学ぶのではないのか?」

◆五常を統合して仁者になれる
ここで五常を簡単にまとめておきましょう。
●仁は人を思いやる気持ちのことです
●義は利にとらわれず人として成すべきことを成すことです。
●礼は仁を実行するための行動規範のことです。
●智は道理をよく知ることです。
●信は信頼に足る言行をすることです。
 これらはすべて人間関係に関連する徳目です。この世の中で人間が抱える問題や悩みはすべて人間関係であるといった心理学者がいますが、人間にとり、古代も現代も人間関係がむつかしい証左でもあります。


仁者と言われた顔回 出典:ウイキペディア

 本項を通じて注目しなければならないのは五常を個別ではなく統合的に理解し習得して実践する必要があるということです。なぜなら、これらの五つの徳目は底流にすべて深い関係を持っているからです。バランスよく体得してゆくことが仁者への近道だということを孔子は示唆しているのだと思います。

 ◆五倫が備わればさらに仁者に近づける
 五常とともに儒教の最高教義だと言われています。「五倫」はまさに人間関係の徳目です。
以下に示す通りです。この道徳は孔子ではなく孟子によって確立されてと伝えられています。
現代では、五輪は時代錯誤だと思われるかもしれませんが、少し言葉を置き換えますと実は現代でも十分通用することばかりです。

●父子の親とは父と子の間には親愛の情を持つこと。
●君臣の義とは君主と臣下の間には慈しみの心があるということ。
●夫婦の別とは夫婦の間には役割分担があるということ。
●長幼の序とは年少者は年長者を尊敬し従順するということ。
●朋友の信とは友は互いに信頼関係を持つということ。

 ●父子の親とは父と子の間には親愛の情を持つことです。
 父だけではありません。親子の間には親愛の情がなければならないということです。親しき中にも礼儀あり、親は子供を私物化してはならず、一人の人間として人格を尊重しなければならないとの教えでもあります。
 子供の将来に対して、自分の将来でもないのに親が介入することで家庭が崩壊することがよくある話ですが、人生における親子の課題は別物であり混同してはいけません。親が良かれとしてやっていることが子供の人生を台無しにしていることがあるのです。しかも、罪の意識や無意識に…。

 ●君臣の義とは君主と臣下の間には慈しみの心があるということです。
 今の世の中は民主主義の時代ですから、社会的には君臣関係ではありません。現代でも君臣に近い関係性が維持されているのは企業社会です。とりわけ、創業者や専制的な経営者が君臨する企業では君臣関係が厳然と存在します。あまりにも横暴なトップの言動に社員はひれ伏さんばかりの態度を強要されていることは珍しくありません。それでも、厳しさの中に慈しみの心があれば救いもあるのですが、体には冷たい血が流れているのではないかと錯覚するほど自己中心的です。
 企業という小さな共同体社会で絶対権力者である経営者の価値観がすべてです。ついてゆけないと思いつつも退職する勇気が出ないまま、無意味に人生を送っている人々を目の当たりにして、私は、やり切れらない思いをしたことがしばしばあります。このような経営者に言いたいのは企業の私物化を直ちにやめること、さもなければ良識ある後継者もしくは所有者に経営権を譲渡してくださいというしかありません。

 ●夫婦の別とは夫婦の間には役割分担があるということです。
 夫婦には社会の最小単位である家族を維持発展させてゆく責任があります。そこには経済的要素と精神的要素が存在します。どちらかに偏向してしまうとそこから家族の崩壊が始まります。私たちが社会生活を営むには基本的人権が尊重されなければなりません。それには権利と義務が前提になります。権利ばかり主張したのでは社会は成り立ちません、ところが多くの家族崩壊した事例を見ると家庭の中でも権利を主張して義務を果たしていないことがわかります。社会と家族は別だという誤解からすべてが始まっています。冒頭に述べたように社会の最小単位が家族でありますから家族の一員はすべて権利と義務を負う責任が生じていることを話し合っておくべきでしょう。

 ●長幼の序とは年少者は年長者を尊敬し従順するということです。
 この徳目は決して強要すべきものではありません。自然に尊敬心が醸成される性格のものです。孝行という概念に対しても同じことがいえると思います。この点に関して孔子は為政編で細かく述べていますのでそちらに譲りますが同じような趣旨のことを説いています。
 年長者には誰であれ、歩んできた人生の経験法則を体得していてます。そして、そこから醸し出される教えは傾聴に値する教えが数多くあり、素直に従えば自分が得するするということです。年長者を馬鹿にしたり、粗末に扱った人は必ず自分が年取った時に同じような扱いを受けると言われます。それはやってはならないことを子孫の前で実践しているからにほかなりません。

 ●朋友の信とは友は互いに信頼関係を持つということです。
 本項の意味するところは、信頼関係というのはギブアンドテイクの関係ではなく、ギブアンドギブの関係だということです。利害関係で成り立っている限り信頼関係は成り立ちません。相手の心の探り合いと駆け引きしかありません。
 「相手が信頼してくれないから信頼できない」という人によく出会います。しかし、この言葉に「相手が信頼してくれても私は相手を信頼できません」という心の声が筆者には聞こえてきます。何かの見返りを期待しているから相手を信用できないのです。最初から見返りを期待していなければ裏切られることはなにもありません。朋友でないのに朋友ぶるのは疲れます。朋友とは心を許せる、心のオアシスになれる人間関係を表していることをお忘れなく。
 単なる仕事上の知り合いと区別して付き合えば裏切られることもないでしょう。(了)


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