論語に学ぶ人事の心得第41回 「あなたはいつ王様になったのだ。世間は笑っているぞ」

八佾の舞 出典:Baido

 いよいよ、本稿から第三篇「八佾」が始まります。八佾(はちいつ)とは一列八人の舞い手が八列計六十四人で舞う天子のみに許された祖先を祀るための舞です。季氏は確かに魯国の三大貴族の一員で位は高いのですが、君主の単なる重臣に過ぎません。それがあろうことか天子にのみ許された八佾を自分の家の庭先で舞ったのです。何を勘違いしたのか、分をわきまえろと怒りをあらわにしたのが本稿です。
 現代社会に住む私たちにはどれだけ礼を失しているのか実感がわかないのですが、孔子が怒りをあらわにしているところを見るとよほどのことだったのでしょう。この季氏一族だけでなく、ほかの貴族の振る舞いに対しても孔子の憤りが頂点にたしたことは何度もありました。

 為政3-1「孔子(こうし)季氏(きし)を謂う。八佾(はちいつ)を庭に舞ふ、是れを忍ぶ可(べ)くんば、孰(いずれ)をか忍ぶ可からざらん」

 「孔子(こうし)季氏(きし)を謂う」とは孔子が季氏(きし)を批評された。「八佾(はちいつ)を庭に舞ふ」とは八佾(はちいつ)を自分の家の庭先で舞わすとは、「是れを忍ぶ可(べ)くんば、孰(いずれ)をか忍ぶ可(べ)からざらん」とはこれを我慢できるなら世の中に我慢できないことはない。

 論語の教え41: 「社会から尊敬されようと思うなら身の程を弁(わきま)えた振る舞いをせよ」地位が高いほど行動を弁(わきま)えよ
 西洋の王家や帰属にはノーブレス オブリージュという社会規範があることを以前に取り上げました。これは、身分の高い者はそれに応じて果たさねばならぬ社会的責任と義務があるという、欧米社会における基本的な道徳観です。もとはフランスのことわざで「貴族たるもの、身分にふさわしい振る舞いをしなければならぬ」の意味があります。
 洋の東西を問わず当てはまるものと思われます。これらに加え、孔子は臣下としての節度をわきまえなさいと言っているのだと思われます。

 地位が高いほど静かな大衆(サイレント・マジョリティ)の声に耳を傾けよ
 何も言わないからと言って意見がないということでは全くありません。よく、無関心層ということばが選挙のたびにジャーナリステックに叫ばれます。これはメディアが自分たちで多くの人の意識を分析できないことを言っているともいえます。政治に関心がないとか、選挙に関心がないと言っていますがどこにも証拠がありません。私は、関心のない人は誰もいないと思います。聞き分ける耳を持たない人や、無視してしまう人が増えていることこそ問題があるのではないでしょうか。静かに世の中を冷徹に見ている人の声を聞き分けられる人が政治であれ、経済であれ、これからの社会のリーダーになれる資格を有するのだと思われます。 


 この世の中の出来事は必ず誰かかが見ている
 誰にもわからないから好き勝手なことをしてしまうことがあります。その最たるものは汚職です。誰にも見られていないからと言って自分に有利に動いてもらうために権力者に近づきます。そして、誰も見ていないからと言って金品の受け渡しをします。しかし、必ず、不思議なことに発覚します。これまでに何十万人百万人という人が自分の人生を棒にしました。それでも、今なおかつ汚職は行われています。
 これも戦争と同じように人類の文明が生じてから今日まで飽きることなく何度も繰り返されてきた愚かな犯罪行為です。高い地位に就いた人には黒い影が忍び寄っていることを常に自覚する必要がありそうです。(了)


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