論語に学ぶ人事の心得第69回 「仁を極めた人は自らの感情を抑制することなく摂理に適った行動をとることができる」

出典:Bing

 本項は「仁」に関する具体的な行為を明らかにしたものです。孔子が自らを自らが語っているようにともとれる内容になっています。「摂理」とは、この世界に存在するあらゆるものを支配する法則のこと言います。 「生きているものはいつか死ぬ」といったように、自然に存在するもの全てに、等しく適応される法則を指します。人が逆らうことのできない、そうあるものだと受け入れるべき事象のことです。
 ここまで言及できるのは、仁者には慈しむに足る人物や憎むに足る人物を見抜く眼力が備わっていることになります。だから、「あの人がそういうなら」とみんなが納得するのです。世間は嫉妬の海と言われるほど嫉(そね)みや妬(ねた)みが渦巻いています。このような中で人をあげつらったり、貶めたりしても周りは納得しません。
 本項で孔子は仁の徳義を積めば納得してもらえるのだと説いているのです。ここでこれまで説いてきた「仁」の概念を人の行為として具体的に明示したものと言えます
 里仁篇第4―3「子曰く、惟(ただ)仁者(じんしゃ)のみ能(よ)く人を好(この)み、能(よ)く人を悪(にく)む。」
 師は言われた。「惟(ただ)仁者(じんしゃ)のみ能(よ)く人を好(この)み」とは、唯一仁者すなわち人間に対する誠実な思いやりを持つ人だけが人を愛することができる。「能(よ)く人を悪(にく)む」とは仁者だけが品性下劣な人を憎むことができる。

 論語の教え69:「徳を積むには自然の摂理に適っていると言われるまで極めよ」



◆「仁」を極めれば人の本質が見えてくる
 孔子がいう「仁」とは盲目的に誰に対しても愛情を振り向けることではありません。自らの感情を抑制することなく、善い人には愛情をもって接し、品性下劣な人間には厳しい態度で臨むという摂理に適った行動をとれる人のことを言います。
 言葉を変えて言えば、孔子は「仁」を修め、体得すれば相手がどんな人かその人の本質が見えてくると説いているのです。よく純粋な人には邪(よこしま)な人が見えてくると言います。この言葉も同じような意味です。他人(ひと)は、なかなか、複雑で理解するのが難しいという言葉も聞きます。これは、孔子の説く「仁」や「純粋」といった清らかな基準を習得していないからではないでしょうか。
 昔から、「水清ければ不魚住」とか「清濁合わせ飲む」とかの格言があります。まるで、純であることがよくないことのような言葉が残されていますが、私は究極の徳である「仁」や個人として純粋な気持ちを持ち続けることは人生の旅路な必需品のように思えます。それは、人生の様々な不祥事や事件、事故に巻き込まれないためです。

◆他人を品定めする前に自己に問いかけなさい
 私たち人間は、とかく他人(ひと)のことを話題にするのが好きな動物のようです。古(いにしえ)の時代から、男が寄れば女性のことを話題にし、女が寄れば、男のことを品定めします。人を評価するこの習性は、古今東西、今昔を問いません。この中から悲喜劇も生まれました。
 しかし、私は「他人を指さす前に自分を顧みなさい」と言いたいと思います。自分は全(まった)き人間でもないのに、他人(ひと)に対して全(まった)き人間であることを求めています。最近、不寛容ということが流行しています。他の価値観を受け入れないという社会的断絶から、自分と異なる価値観を持っている個人または集団を否定することです。ダイバーシティ(多様性)という言葉も流行(はや)っています。両者は真逆の概念です。この地球上の植物を含めすべての生き物は多様性の中に生きていることを忘れてはなりません。
 他人を指させば後の三本の指は自分に向かっているという言葉もあります。言葉の遊びをするために持ち出したのではありません。物事が順調に運んでいるときはいいのですが、逆風になった時や失敗に終わった時に、責任を他者に押し付けようとします。他者に責任を転嫁するまえに自己反省をすることの大切さを説いている言葉です。

◆「仁」を極める道のりは遠く、そして険しい
 「仁」を語るのは易し、行うは難しだと思います。孔子が73年の生涯をかけて築き上げたものを普通の人が悟れるとは思えません。私はここで大切なことは五常(仁・義・礼・智・信)を包括的に人生の目標として掲げ一つでも昨日より今日、今日より明日の自分が変れることを目指すことが大切だと思います。このプロセスを実践することが「仁」の悟りを極めることにつながるのではないでしょうか。
 繰り返します。他人をとやかく言う前に自分がどうかということを自問してください。仁者でもないあなたの他人(ひと)の品定めには納得する人はまずいないでしょう。
(了)


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