論語に学ぶ人事の心得第66回 「心のこもらない礼は言語道断、見るに堪えない」

 本項は不寛容の時代と言われる今日に最もふさわしい孔子の言葉です。世界のリーダーにこの孔子の言葉に耳を傾けよと叫びたいくらいです。
 弱い立場の者にふんぞり返る上位職の者、これは、政治家、役人、民間企業を問いません。礼儀の形式だけを身に装い、こころは礼と真逆の者、葬儀に列席しながら悲しみを持たない者は見るに堪えない愚かな行為だと孔子は激しく非難しています。
 第三篇八佾(はちいつ)は本項が最終項です。
 第三篇に共通するのは礼に対する心構えを述べたものでした。とりわけ孔子が言いたかったのは自分の置かれた立場を弁(わきま)えよということでした。
 第三篇第一項では天子にのみ認められた八佾(はちいつ)の舞を自分の家の中庭で舞わすのを我慢できるなら世の中に我慢できないことはないと言い切っています。この場面は季孫(きそん)氏を批判してのことでした。季孫氏は魯国の三大貴族で君主に次ぐ立場の人でした。重臣であり、魯国の実権を握っていましたが、そこはやはり、臣下です。君主とは歴然たる立場の違いがあることは明白です。
 そして、本項で締めくくっています。形式だけの礼は見るに堪えないことだと強い言葉で否定しています。
 八佾篇第3―26「子曰く、上(かみ)に居て寛(かん)ならず、礼を為(な)して敬(けい)せず、喪に臨(のぞ)んで哀(かな)しまずんば、吾(わ)れ、何を以(もっ)てか之(これ)を観(み)んや。」
  
 師は言われた。「上(かみ)に居て寛(かん)ならず」とは上位職にいながら寛容でないもの、「礼を為(な)して敬(けい)せず」とは礼の身振りをしながら敬意を持たないもの、「喪に臨(のぞ)んで哀(かな)しまずんば」とは葬儀に列席しながら哀悼の気持ちを持たないもの、「何を以(もっ)てか之(これ)を観(み)んや。」とは私はこれらを見るに堪えない。

 論語の教え66:「寛容、敬意、哀悼はすべての人にとり心情の発露である。形だけの礼には何の意味があろうか?」

◆多様性を認めることが寛容な組織である
 2020年から2021年にかけて「不寛容」が最も喧伝された年として、人類史上にその名が留められると思います。それは二つの出来事によって引き起こされてことも記憶に留められるでしょう。
 一つは大統領選挙によるアメリカ合衆国の不寛容です。国家が二分され、断層が深くなるばかりでした。このひび割れは、どこまで深くなるのだろうと世界は固唾を飲んで見守りました。選挙結果が判明してから世情は混沌としていました。「この世の中は秩序に向かっているのか、混沌に向かっているのか」といったのはベルギーのノーベル物理学賞を受賞したイリア・ブリゴジンですが、まさにそんな様相を呈していました。しかし、社会を揺るがした現象的終末はあっけなく訪れました。選挙に敗れたサイドの群衆が暴徒と化し、無謀にも議会に突入したことで幕が引かれることになりました。噴火した火山の溶岩が雨に打たれて固まった感があります。また、4年後には噴火する可能性を秘めて雨降って地固まる感がしないではありません。


出典:Bing

 二つ目はコロナパンデミックによる世界的な不寛容です。これは極地現象ではなく地球規模で発生しました。その断層はアメリカのような二大断層ではなく、無数の断層が生じていますし、国や地域によっても違います。通常はコロナウイルスとの戦いに人類は結束するはずでした。しかし、現実は違った形であらわれました。


コロナウイルス画像 出典:Bing

 主なものでも、コロナに対する楽観派と悲観派、コロナを罹病した人と未罹病の人、患者と治療する人、政策当局と医療関係者、中央政府と地方政府、世界保健機関と各国政府との間で不寛容が起こりました。この不寛容は前者と異なり終局がいまだ見えていません。コロナに関しては一昨年の12月に中国武漢で判明してから今日までその正体がなにものか2021年6月現在判明していません。相手もさる者、変異をし続けています。科学者により対応がこれほどさまざまに、意見が異なるのも珍しい話です。権力を持っている人は無力で、科学者がその知見において、彼らを説得できないことが長引かせる原因ではないかと思いたくなります。何が正しいのかを早く究明されるよう願いたいと思います。
 ダイバーシティやインクルージョンといった言葉が飛び交うようになって久しいのですが、これまで述べてきたように不寛容が突発的に発生しますと寛容が吹っ飛びます。それほど、ダイバーシティやインクルージョンというのは言うことはやさしいのですが、行うことは難しいのだと思います。改めて考えさせられました。しかし、寛容な組織や社会の実現に絶望的になる必要はないと思います。
否、いまこそ、寛容な社会の実現に立ちあがらなければならないと決意するときだと思います。孔子先生に意見を聞いてみたいくらいです。

◆心のこもらない形式主義は社会にとって害である。
 現在社会は何でもビジネス的に考えてしまいます。葬儀ビジネスや寺院の観光化などは単なる金儲けのために行われるようであれば孔子が述べることに反することだと思います。「葬儀に列席しながら哀悼の気持ちを持たないもの」は許しがたいことだと言っているのです。先祖を敬い、今日自分があることを感謝するのが礼の心得です。
 ビジネスは自由です。個人のアイデアで社会に貢献することはこれからも奨励されなければなりません。そこには一つの理念が存在します。
 「心のこもらない金儲け主義」であってはならないということです。

◆人間の尊厳を大切にしよう
 この世の中で何が一番大切かを訊かれたら、皆さんは何と答えられますか?
 私は人間の尊厳だと思います。人類はこれまでどんなに社会が変化し、進歩しても捨てなかったのは人間の尊厳でした。人類の歴史は人間の尊厳を守るための戦いだったと言っても言い過ぎではないと思います。まさに、「弱肉強食の時代」から「弱者解放の時代」へと進歩を遂げることで生物界の王者にもなり、多くの犠牲を払い居ながらも尊厳を守り続けました。
 1945年(昭和20年)に調印・発効した国際連合憲章は、「基本的人権と人間の尊厳及び価値と男女及び大小各国の同権とに関する信念をあらためて確認」するとして、人間の尊厳(個人の尊厳)を基本原理としています。
 また、1948年(昭和23年)に国連総会で採択された世界人権宣言も、前文で「人類社会のすべての構成員の固有の尊厳と平等で譲ることのできない権利とを承認することは、世界における自由、正義及び平和の基礎」、「国際連合の諸国民は、国際連合憲章において、基本的人権、人間の尊厳及び価値並びに男女の同権についての信念を再確認」するとし、1条で「すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。」と定めて、個人の尊厳を基本原理としていいます。
 しかし、世界はこれだけ崇高な理念を共有しながらも、人権の侵害は無くなっていません。ここで改めて人間の尊厳こそ、全人類が死守しなければならない最後の徳だと思います。(了)


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