論語に学ぶ人事の心得第44回 「礼の根本は外形でなく、心のこもったものでなければ意味がない」

孔子像 出典:ウイキペディア

 本項は林放(りんぽう)との対話です。林放(りんぽう)は弟子の一人とも伝えられていますが詳細は分かっていません。祭礼を派手ににぎやかに行うのは今も昔も変わりません。だから、師に林放(りんぽう)が礼の作法としてどうすべきかを質問したのです。
 林放(りんぽう)は、どうすべきか無知で師に質問したのではなく、師から直接礼の作法を確認するための質問であったとも読み取れます。師の口から礼における華美を戒める言葉を引き出したかったのかもしれません。
 前項で礼に対する孔子の答えは明快に出ています。敢えて二度も続けて礼に対する孔子の回答を引き出そうとしているのはよほどの背景(例えば、華美が目に余るなど)があってのことだと推測したくなるのは筆者だけではないと思います。

 八佾篇第3―4「林放(りんぽう)、禮(れい)の本(もと)を問う。子曰く、大いなる哉(かな)問(とい)や。禮(れい)は其の奢(おご)らん与(よ)りは、寧(むし)ろ儉(けん)せよ。喪(そう)は其の易(おさ)めん与(よ)りは、寧(むし)ろ戚(いた)め。」

 「林放(りんぽう)、禮(れい)の本(もと)を問う」とは林放(りんぽう)が礼の根本を質問した。師は答えられた。「大いなる哉(かな)問(とい)や」とは重大な質問だ。「禮(れい)は其の奢(おご)る与(よ)りは、寧(むし)ろ儉(けん)せよ」晴れの祭礼は豪華に飾り立てるよりつつましやかなほうがよい。「喪(そう)は其の易(おさ)める与(よ)りは、寧(むし)ろ戚(いた)め」とは喪中の礼は派手にするより悲しむほうがよい。


 論語の教え44: 「礼は頭で考えることでなく、根本原理に従い身体を動かして実践することである」

 礼は「仁」の具体的な行動として表したもの
 口では立派なことを言っているのに行動は真逆の人がいます。その最たることは公私の区別ができない人です。
 公金を私用することは犯罪ですが、それに近いことが行われています。例えば、私用で行った旅行などの領収書を用いて会社に旅行費用を請求する行為です。その他、費用だけでなく、部下を私用に使う上司もいます。顧客の接待を装って、私用で飲み食いする営業部員もいます。時間外労働をしてもいないのに誰も見ていないからと言って会社に時間外賃金を請求しています。
 このように事例を挙げればきりないほど公私の混同が悪しき慣行になっている企業があることは礼に反する行為です。孔子は見る事・聴く事・言う事・行動の全て、何事にわたっても仁の実践行動からはずれないのが大事だと説いています。

 礼は自分だけでなく周りの人を巻き込んで実践する
 二例紹介しましょう。昨今、私たちの周りでスマフォを寝るとき以外は離したことがない人を見かけませんか?朝目が覚めたらすぐに手に取り、朝食中もスマフォに目を落としています。出勤途上も歩きながら画面を見ています。もちろん、交通機関のなかでも夢中になっています。
 勤務中はさすがにスマフォから一時的に目を離しますが、休憩中やトイレの中でも用を足しながらスマフォをいじっています。会社が終わってからも家路につく時には逆コースでスマフォを離しません。夕食中もスマフォを見ながらで家族との会話はありません。一日で手にスマフォを持っていないのはシャワーを浴びるときと寝る時です。この有様は如何にも異常としか言いようがありません。


 後の一例は、やはりスマフォ関連です。大きな音を出してスマフォの映像を見ている人が多いことです。しかも、電車の中やレストランで食事中に騒音が鳴り出すのです。あえて、騒音と言いたいと思います。聴いている人は音楽やドラマと一体になっていますが周りからすると騒音でしかありません。イヤーホーンやヘッドホーンがあるのです。着用するというのが他人に対する礼だと思いますが無神経にもこれが当たり前だと言わんばかりです。
 このような光景に出合ったら見て見ぬふりは止めましょう。非難するのではなく優しくやめるよう声掛けしましょう。それが社会を明るくすることになります。
何事も、行き過ぎはよくありません。
(了)


論語に学ぶ人事の心得第43回 「人はうわべの格好をつけたとしても中身が整わなければ、すぐ見破られてしまう」

琴を弾く孔子 出典:Bing


 今回は徳の真髄に迫る孔子の話です。「仁」は五常(ごじょう)または五徳(ごとく)とも言われる、需教で説く5つの徳目のことです。これまでにも何回も登場しましたので覚えている方もいると思いますが、仁・義・礼・智・信を指しています。その中でも「仁」は人への思いやりと人間愛を表し、孔子は、仁をもって最高の道徳であると常々のべています。日常生活から遠いものではありませんが、一方では容易に到達できぬものとしています。
 孔子自身も自分は仁者でないとも言っていますがこれは謙遜でしょう。誰だって徳を積んだ人は自らの徳を自慢げに語る人はいません。あくまでも、第三者が評価することです。孔子は自らの実践行動の中から五常を導き出したのです。
 世の中には外見だけで思いやりがありそうに見せる人は多くいます。しかし、そのような軽薄な人物はすぐ見破られてしまいます。音楽についてもそうです。この時代の音楽は社会上の儀礼として正式な行事で執り行われたものです。心のこもらない儀式をいくら執り行っても意味がないと孔子は指摘しているのです。
 八佾篇第3―3「子曰く、人にして仁(じん)ならずんば、禮(れい)を如何(いか)にせん。人にして仁(じん)ならずんば、樂(がく)を如何(いか)にせん。」

 先生は言われた。「人にして仁(じん)ならずんば」とは人間としての誠実な思いやりや愛情を持たないなら、「禮(れい)を如何(いか)にせん」とは礼を学んだとて何になろう。「人にして仁(じん)ならずんば」とは人間としての誠実な思いやりや愛情を持たないなら、「樂(がく)を如何(いか)にせん」とは音楽を学んだとて何になろう。

 論語の教え43: 「私たちは何のために学ぶのか?仁を極めるために学ぶのではないのか?」

◆五常を統合して仁者になれる
ここで五常を簡単にまとめておきましょう。
●仁は人を思いやる気持ちのことです
●義は利にとらわれず人として成すべきことを成すことです。
●礼は仁を実行するための行動規範のことです。
●智は道理をよく知ることです。
●信は信頼に足る言行をすることです。
 これらはすべて人間関係に関連する徳目です。この世の中で人間が抱える問題や悩みはすべて人間関係であるといった心理学者がいますが、人間にとり、古代も現代も人間関係がむつかしい証左でもあります。


仁者と言われた顔回 出典:ウイキペディア

 本項を通じて注目しなければならないのは五常を個別ではなく統合的に理解し習得して実践する必要があるということです。なぜなら、これらの五つの徳目は底流にすべて深い関係を持っているからです。バランスよく体得してゆくことが仁者への近道だということを孔子は示唆しているのだと思います。

 ◆五倫が備わればさらに仁者に近づける
 五常とともに儒教の最高教義だと言われています。「五倫」はまさに人間関係の徳目です。
以下に示す通りです。この道徳は孔子ではなく孟子によって確立されてと伝えられています。
現代では、五輪は時代錯誤だと思われるかもしれませんが、少し言葉を置き換えますと実は現代でも十分通用することばかりです。

●父子の親とは父と子の間には親愛の情を持つこと。
●君臣の義とは君主と臣下の間には慈しみの心があるということ。
●夫婦の別とは夫婦の間には役割分担があるということ。
●長幼の序とは年少者は年長者を尊敬し従順するということ。
●朋友の信とは友は互いに信頼関係を持つということ。

 ●父子の親とは父と子の間には親愛の情を持つことです。
 父だけではありません。親子の間には親愛の情がなければならないということです。親しき中にも礼儀あり、親は子供を私物化してはならず、一人の人間として人格を尊重しなければならないとの教えでもあります。
 子供の将来に対して、自分の将来でもないのに親が介入することで家庭が崩壊することがよくある話ですが、人生における親子の課題は別物であり混同してはいけません。親が良かれとしてやっていることが子供の人生を台無しにしていることがあるのです。しかも、罪の意識や無意識に…。

 ●君臣の義とは君主と臣下の間には慈しみの心があるということです。
 今の世の中は民主主義の時代ですから、社会的には君臣関係ではありません。現代でも君臣に近い関係性が維持されているのは企業社会です。とりわけ、創業者や専制的な経営者が君臨する企業では君臣関係が厳然と存在します。あまりにも横暴なトップの言動に社員はひれ伏さんばかりの態度を強要されていることは珍しくありません。それでも、厳しさの中に慈しみの心があれば救いもあるのですが、体には冷たい血が流れているのではないかと錯覚するほど自己中心的です。
 企業という小さな共同体社会で絶対権力者である経営者の価値観がすべてです。ついてゆけないと思いつつも退職する勇気が出ないまま、無意味に人生を送っている人々を目の当たりにして、私は、やり切れらない思いをしたことがしばしばあります。このような経営者に言いたいのは企業の私物化を直ちにやめること、さもなければ良識ある後継者もしくは所有者に経営権を譲渡してくださいというしかありません。

 ●夫婦の別とは夫婦の間には役割分担があるということです。
 夫婦には社会の最小単位である家族を維持発展させてゆく責任があります。そこには経済的要素と精神的要素が存在します。どちらかに偏向してしまうとそこから家族の崩壊が始まります。私たちが社会生活を営むには基本的人権が尊重されなければなりません。それには権利と義務が前提になります。権利ばかり主張したのでは社会は成り立ちません、ところが多くの家族崩壊した事例を見ると家庭の中でも権利を主張して義務を果たしていないことがわかります。社会と家族は別だという誤解からすべてが始まっています。冒頭に述べたように社会の最小単位が家族でありますから家族の一員はすべて権利と義務を負う責任が生じていることを話し合っておくべきでしょう。

 ●長幼の序とは年少者は年長者を尊敬し従順するということです。
 この徳目は決して強要すべきものではありません。自然に尊敬心が醸成される性格のものです。孝行という概念に対しても同じことがいえると思います。この点に関して孔子は為政編で細かく述べていますのでそちらに譲りますが同じような趣旨のことを説いています。
 年長者には誰であれ、歩んできた人生の経験法則を体得していてます。そして、そこから醸し出される教えは傾聴に値する教えが数多くあり、素直に従えば自分が得するするということです。年長者を馬鹿にしたり、粗末に扱った人は必ず自分が年取った時に同じような扱いを受けると言われます。それはやってはならないことを子孫の前で実践しているからにほかなりません。

 ●朋友の信とは友は互いに信頼関係を持つということです。
 本項の意味するところは、信頼関係というのはギブアンドテイクの関係ではなく、ギブアンドギブの関係だということです。利害関係で成り立っている限り信頼関係は成り立ちません。相手の心の探り合いと駆け引きしかありません。
 「相手が信頼してくれないから信頼できない」という人によく出会います。しかし、この言葉に「相手が信頼してくれても私は相手を信頼できません」という心の声が筆者には聞こえてきます。何かの見返りを期待しているから相手を信用できないのです。最初から見返りを期待していなければ裏切られることはなにもありません。朋友でないのに朋友ぶるのは疲れます。朋友とは心を許せる、心のオアシスになれる人間関係を表していることをお忘れなく。
 単なる仕事上の知り合いと区別して付き合えば裏切られることもないでしょう。(了)


論語に学ぶ人事の心得第42回 「リーダーが力を弱めた時の後継者のありようが組織の将来を決める」

孔子立像 出典:Bing

 孔子は、前稿と同様に臣下に過ぎない季孫氏(きそんし)、孟孫氏(もうそんし)、叔孫氏(しゅくそんし)の三桓(さんかん)の分を弁えない振る舞いに苦言を呈しています。魯国の天子が武力、財力、民衆からの信頼も薄いことに付け込んで、まるで自分が天子になったように振る舞うのはあまりにも礼を逸した行動ではないのかと戒めているのです。魯国のような小国と言えども、天子という最高の権力者が統治力を無くすると臣下は長年の伝統をも踏みにじった行為をしてしまうのでしょう。魯国に暗雲が垂れ始めています。孔子は今後魯国をどうガバナンスしてゆくのでしょうか?
 皆さんとともにその行く末を見守りたいと思います。

 八佾3-2「三家者(さんかしゃ)、雍(よう)を以って徹す。子曰く、「相(たす)くるは維(こ)れ、辟公(へきこう)、天子(てんし)穆穆(ぼくぼく)と。』奚(なんぞ)三家(さんか)の堂にとらん」

 「三家者(さんかしゃ)」とは季孫氏(きそんし)、孟孫氏(もうそんし)、叔孫氏(しゅくそんし)の魯国の三貴族のこと。三桓ともいう。「雍(よう)を以って徹す」とは周王朝の天子の祭祀の歌を演奏させて祭祀をお開きとした。先生は言われた。辟公(へきこう)とはこの御三家のこと。祭祀の際には、手伝うのが諸侯である三桓で、天子がご機嫌麗しいとあるのに、どうしてそれを三桓の正堂で演奏するのか

 論語の教え42: 「公に奉仕するのではなく、私服を肥やすことに執心する者に将来を預けてはならない」


信頼関係 出典:BING

 命運をわけた二人の経営者
 経営者の実際にあった話です。仮に、その会社をA社とB社にしましょう。二人のトップはライバル会社でありましたが、お互いの心が通い合うようになります。将来のことを考えて二社を合併させるところまで意気投合しました。両者とも社内の反対を押し切って実際に合併ま、る手続きに入ったその時に、B社の社長は心筋梗塞で急逝したのです。享年43でした。好事魔多しとはこのようなことを言うのでしょうか。突然、リーダーを亡くしたB社の社員は動揺しました。創業者でワンマン経営であったB社の後継者は難航しました。結局、妻で監査役であった全社長夫人が後継者となることが決まりました。
 悪いことが重なるもので、合併のための財務諸表をまとめたところ、債務超過に陥っていることが判明したのです。亡くなった社長のみがこの事実を知っていました。いわゆる、粉飾決算をしていました。

 私財を投げ打って危機を乗り切る気概
 そこで、困ったのはA社です。A社は堅実経営の会社でした。絵に描いたように、成長性、安全性、収益性、生産性共にバランスの取れた経営をしていました。A社は今後のB社との関係をどうすべきかの決断を迫られたのです。B社との話をご和算にするか、B社を救うかの選択に迫られたのです。A社は前者を選択すればB社の将来は全くありません。結局、A社の社長は後者を選択しました。亡くなったB社社長との生前共有し合った両者の未来のためにも、そして、B社の社員を含む関係者の将来を考え、会社を維持継続することを決断しました。しかも、社長個人の私財でB社の債務超過を解消し、一年待って、両社はめでたく合併したのです。
合併後の会社は極めて順調に収益を回復し優良企業としての地歩を築きました。

 人は何に動機付けられるか
 ことの是非はともかく、人はお金に動機付けられるタイプとやりがいなどの精神的要素に動機付けられるタイプの二つに分かれるようです。それぞれ豊かさの価値概念を経済的側面に置くのか、あるいは、精神的側面に置くのかのどちらに置くのかということになります。誰だって両方の価値観を持っていると言われるかもしれません。確かにその面は否めませんが刑法に触れる行為をしてまで、金に執着するレベルとなると多くの人はそこまで執着する気持ちは持っていないというのではないでしょうか。かつて、アメリカの著名な経営学者P・F・ドラッカーは企業の目的は「顧客の創造である」と唱えました。これまでは「企業の目的は利潤の追求である」というのが常識だっただけに論争が巻き起こりました。両方とも同じことを言っているのだとか両方とも裏表のことを言っているのだとか評論家のような解説が実業界でももてはやされたことを思い出します。私は伝統的な定義よりドラッカーの主張に共鳴するところが大です。皆様は如何でしょうか。
 企業経営者は資本家ではありません。資本つまりお金に関心を持つ前に顧客に関心を持っているとお金は後からついてくるように思われます。


(了)


論語に学ぶ人事の心得第41回 「あなたはいつ王様になったのだ。世間は笑っているぞ」

八佾の舞 出典:Baido

 いよいよ、本稿から第三篇「八佾」が始まります。八佾(はちいつ)とは一列八人の舞い手が八列計六十四人で舞う天子のみに許された祖先を祀るための舞です。季氏は確かに魯国の三大貴族の一員で位は高いのですが、君主の単なる重臣に過ぎません。それがあろうことか天子にのみ許された八佾を自分の家の庭先で舞ったのです。何を勘違いしたのか、分をわきまえろと怒りをあらわにしたのが本稿です。
 現代社会に住む私たちにはどれだけ礼を失しているのか実感がわかないのですが、孔子が怒りをあらわにしているところを見るとよほどのことだったのでしょう。この季氏一族だけでなく、ほかの貴族の振る舞いに対しても孔子の憤りが頂点にたしたことは何度もありました。

 為政3-1「孔子(こうし)季氏(きし)を謂う。八佾(はちいつ)を庭に舞ふ、是れを忍ぶ可(べ)くんば、孰(いずれ)をか忍ぶ可からざらん」

 「孔子(こうし)季氏(きし)を謂う」とは孔子が季氏(きし)を批評された。「八佾(はちいつ)を庭に舞ふ」とは八佾(はちいつ)を自分の家の庭先で舞わすとは、「是れを忍ぶ可(べ)くんば、孰(いずれ)をか忍ぶ可(べ)からざらん」とはこれを我慢できるなら世の中に我慢できないことはない。

 論語の教え41: 「社会から尊敬されようと思うなら身の程を弁(わきま)えた振る舞いをせよ」地位が高いほど行動を弁(わきま)えよ
 西洋の王家や帰属にはノーブレス オブリージュという社会規範があることを以前に取り上げました。これは、身分の高い者はそれに応じて果たさねばならぬ社会的責任と義務があるという、欧米社会における基本的な道徳観です。もとはフランスのことわざで「貴族たるもの、身分にふさわしい振る舞いをしなければならぬ」の意味があります。
 洋の東西を問わず当てはまるものと思われます。これらに加え、孔子は臣下としての節度をわきまえなさいと言っているのだと思われます。

 地位が高いほど静かな大衆(サイレント・マジョリティ)の声に耳を傾けよ
 何も言わないからと言って意見がないということでは全くありません。よく、無関心層ということばが選挙のたびにジャーナリステックに叫ばれます。これはメディアが自分たちで多くの人の意識を分析できないことを言っているともいえます。政治に関心がないとか、選挙に関心がないと言っていますがどこにも証拠がありません。私は、関心のない人は誰もいないと思います。聞き分ける耳を持たない人や、無視してしまう人が増えていることこそ問題があるのではないでしょうか。静かに世の中を冷徹に見ている人の声を聞き分けられる人が政治であれ、経済であれ、これからの社会のリーダーになれる資格を有するのだと思われます。 


 この世の中の出来事は必ず誰かかが見ている
 誰にもわからないから好き勝手なことをしてしまうことがあります。その最たるものは汚職です。誰にも見られていないからと言って自分に有利に動いてもらうために権力者に近づきます。そして、誰も見ていないからと言って金品の受け渡しをします。しかし、必ず、不思議なことに発覚します。これまでに何十万人百万人という人が自分の人生を棒にしました。それでも、今なおかつ汚職は行われています。
 これも戦争と同じように人類の文明が生じてから今日まで飽きることなく何度も繰り返されてきた愚かな犯罪行為です。高い地位に就いた人には黒い影が忍び寄っていることを常に自覚する必要がありそうです。(了)


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