論語に学ぶ人事の心得第18回 「私たちは教科書の詩経から何を学ばなければならないのか」

出典:Bing

 本項は孔子一門の教科書とされていた「詩経」についての孔子の思いが述べられています。「詩経」は中国最古の詩編であり、孔子自身が編纂されたものです。
 そして、「詩経」は、各国各地にあった民謡や詩歌を全国行脚しながら収集し三百五編にまとめたものです。当時は著作物と言ってもめぼしいものは何もありませんでした。地域で歌われていた民謡や語り継がれていた三千編の素朴な詩歌の中から絞り込んだと伝えられています。
 その構成は、
 1.各地の民謡を集めた「風(ふう)」すなわち国風(160篇)
 2.貴族や朝廷の公事・宴席などで奏した音楽の歌詞である「雅(が)」(小雅74篇、大雅31篇)
 3.朝廷の祭祀に用いた廟歌の歌詞である「頌(しょう)」(40篇)
の3つに大別されます。(出典:Wikipedia)

 為政2-2「子曰く、詩三百、一言(ひとこと)以(もっ)て之を蔽(おお)えば、曰(いわ)く、思ひて邪(よこしま)無し。」

 先生は言われた。「詩三百、一言(ひとこと)以(もっ)て之を蔽(おお)えば」とは詩経三百編を一言で総括すれば、「曰(いわ)く、思ひて邪(よこしま)無し」とは間違った事でなく人々の感情の純粋さということだろう。

 論語の教え18:『私たちが真に学ばなければならないのは純粋に善良な気持ちを持ち続けることだ』―純粋に善良な気持ちを持ち続けることは、邪(よこしま)を近づけないことを意味している。
 前述したように、孔子が各地を旅しながら収集したたくさんの詩歌を305編にまとめ上げました。その編纂した後、感想を一言でいえば邪(よこしま)を排除することだと総括したのです。邪とは正しくないこと。道にはずれていること。また、そのさまのことを言います。
 邪を排除することは常に善良な気持ちを持ち続けることです。ところが、時の為政者や権力者によって独善的に解釈され、素直な気持ちで額面通り受け止めるととんでもない事件や事故に巻き込まれることが歴史上枚挙にいとまないほど起こっています。
 だから、政治や経済など実社会では純粋だけでは生きていけないと言われます。また、何事も清濁併せ吞まなければ世渡りできないともいわれます。しかし、孔子は純粋に生きることの大切さを弟子に説いているのです。
 おそらく、この総括にある「邪(よこしま)を排除すること」は編集後に結果として出てきた感想でなく、詩経を編集するにあたって堅持してきた孔子の編纂方針だったと思います。いつの時代も実社会は一筋縄でいかないことばかりです。だからこそ、孔子は自分が生きている混沌とした社会に新しい価値観を植え付けなければならないと考えたのだと思います。
 翻って現代の社会にタイムスリップします。かつて私はある先輩からこんなアドバイスをもらったことがあります。本項と関連することなので紹介します。その人が言うには「純粋な心を持っている人ほど心の汚れた人を見分けることができる。だから純粋に生きることを誇りにしなかればならない。そして、汚れた心や邪(よこしま)な人と親しくすることはないので、その結果、邪(よこしま)な人との交流から過ちを犯すことを防止することができる」というのです。目からうろこが落ちる思いがしました。
 純粋な気持ちを持ち続けていることは決して短所でなく長所であることを教えられました。(了)


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